慮りすぎてはいけない

動物世界にはジレンマが生じるような目立った葛藤や自己矛盾はない。合目的的であり合理的である。DNAに組み込まれた習慣的法則に忠実に従えば、万事がうまくいく。食物連鎖の悲劇ですら自然の摂理に適っている。人間のように、その場限りの工夫をいちいち凝らさなくてもいいのである。極論を恐れずに言えば、そういうことになる。

人間どうしが付き合いことばを交わす。後味が悪くならぬほうがいいから、刺々しい言い回しを避ける。婉曲語法を使っても虚偽でなければそれでよい。気遣いもあるだろうから、まったく中身のない社交辞令よりはよほどましである。ぼくのような明け透けにものを言う人間でも、他人に対しては姿勢もことばもまずはやさしくなければいけないと思う。たとえ相手のことに言及する意見が批判めいたとしてもだ。

しかし、このことと、その場その場で相手の心理や立場をおもんぱかりすぎて自分の意見を歪めたりカモフラージュしたりするのは別のことである。自分の意見や考えを述べるに際して、どんな空気にも、そこに居合わせる他人の存在にも、世間の一般論にも左右されることはない。場に臨んで空気や他人や論を過剰に読み取ろうとすれば、自論が変わってしまう。議論し納得した後ならまだしも、意見のやりとりの前に自論を変えるのは情けないし、変えるのなら没個性である。


慮るとはどういうことか。周囲の状況に目配り気配りしてよく考えることである。思慮や配慮、あるいは深謀遠慮や賢慮良識に示される通り、慮ることはよいことだ。しかし、心配りや心遣い、しっかりと考えることも、度を越すと半強制的に空気を読まされるような結果になる。考えすぎたり思いすごしたりするのは「過慮」。賢さを失うと「愚慮」になり、考えれば考えるほど悩んでしまうと「苦慮」になる。いかに慮るかが重要であり、いい具合に慮らねばならないのである。

組織に属するかぎり、組織のコードを弁えねばならない。ルールに則りどのように振る舞うべきかを類推しなければならない。もうこれだけで十分慮っていると言える。その上で、自論を述べればいいのだ。組織のコードで意見を縛ることはない。コードと意見は別物である。ところが、慮りすぎると、暗黙のルールを探し出して先回りするかのように流れに棹差し、空気に染まる。

日本人は概して空気を読むようによく躾けられている。異文化に置かれると、不器用ながらも郷に入っては郷に従おうと振る舞う。そんな強迫観念に苛まれることなどないのだが、勝手にそうなってしまう文化的な刷り込みを侮ってはいけない。皆が皆というつもりはないが、欧米人や中国人らははなから空気を読む気がない。超ド級のKYだ。裏返せば、自論をはっきり言おうと思うのなら、郷の空気やルールを読み解きすぎてはいけないのである。意見を言うのなら慮らねばならない、しかし慮りすぎてもいけない。さじ加減は難しいが、難しいからこそ意見が価値を持つと言うべきだろう。

小題軽話(その5)

今日のネタ  20139月~11月」と表紙に書かれた文庫本サイズの過去ノート。ぺらぺらとめくって文字を追えば記憶がよみがえる。読まなければ忘却の彼方。加齢によって覚えることがままならなくなる。だから、ノートをきっかけにして時々思い出してみるのだ。知り合いを観察していると、読まない人ほど記憶が衰えやすい。要注意。

難字  難解な漢字には、❶読みが難しいもの、❷意味がわからないもの、❸ほとんど再現できないものがある。
❶は知らなければ読めない。字画の少ない「小火」も、字画が多くて見慣れない「麺麭」も、初見だと読みづらい(それぞれ、「ぼや」「ぱん」)。
「拳拳服膺」は❷の例。この四字熟語は「けんけんふくよう」とまぐれで読めたのだが、何のことかさっぱりわからない。辞書を引いて「つねに心中に銘記して忘れないこと」という意味を知る。しかし、この表現を使うことはまずないだろう。
ワープロ時代になって、実際には書けない漢字が画面上に明朝やゴシックで再生できるようになり、❸を実感しにくくなった。本ブログを9年間書いてきて、改竄かいざん軋轢あつれきはそれぞれ一度ずつしか使っていない。使用頻度が低い漢字は書けなくてもよく、使う段になってそのつど調べればよいと思う。しかし、よく使う漢字は書けるようにしておきたい。ぼくは揶揄やゆという表現をたまに使うが、ペンを手にしてから、いつも戸惑っている。ワープロは字画の多い文字を簡略表示するので、間違った漢字を覚えてしまう。贅沢の「贅」なども侮れない。

妬み、嫉み、僻み  それぞれ「ねたみ」「そねみ」「ひがみ」と読む。これらの用語は、ニュアンスの違いがわからないと使いづらい。と言うわけで、たいてい嫉妬、やきもち、羨ましいなどで代用される。嫉妬とは「そねみ・ねたみ」のことである。
手元にある簡易版国語辞典を引いてみた。ねたみ【妬み】の見出しには「しっと。そねみ」とある。そねみ【嫉み】をチェックしたら、一つ目の定義が「自分よりすぐれている人をうらやみにくむ」、二つ目が「ねたみ」。結局、ねたみとそねみのニュアンスはわからずじまい。ちなみに、ひがみ【僻み】には「ひがむこと」と書いてあった。辞書編纂者は利用者の知力を過信している。

おざなりとなおざり  201310月、関西で有名なHHホテルズの食品偽装が発覚した。記者会見で関係者は「おざなり」を詫びたが、自覚しながら七年間も誤った表示を続けてきたのは「おざなり」ではない。おざなりは急場しのぎのことばである。「適切に表示するシールがなくなり、間に合わせに手書きしたところ、それが誤っていた」なら、おざなりである。
ずっとおざなりだったのである。習慣化していたのである。ならば、おざなりではなく「なおざり」なのだ。なおざりだったのに、おざなりという表現で済まそうとしたところに狡猾さが見え隠れする。いや、関係者はそもそもそんな用語の違いも知らなかったと思われる。ところで、おざなりは「御座なり」、なおざりは「等閑」と表記する。

羊頭狗肉ようとうくにく  上記の不祥事は、芝エビとバナメイエビ、サーロインステーキと牛脂入り加工肉の偽装表示であった。羊頭狗肉とは「立派そうに見せかけて、実は卑劣なことをする」のたとえである。バナメイエビと加工肉に非はない。卑劣なのは行為者である。
サーロインと謳われて成型加工肉をうまいうまいと口に運んだ消費者。舌を巻く前に己の舌の程度も心得るべし。車も芝も、エビはエビ。違いがわからなければ、ブランドとは味ではなく名ということになる。「おいしいもの」と「もののおいしさ」は違う。
ところで、狗肉は犬の肉だと思われているが、馬の干し肉、ホースジャーキーである。羊肉のほうが馬肉よりも上等だった国の話。

忘れるのは勝手?  前世期の悲惨な事件の記憶が薄れる。それどころか、今年の事件でさえ忘れる。歴史も忘れる。BSテレビでヴェルサイユの街を紹介していた。17世紀まで牢獄だった施設跡がリフォームされ居酒屋になっている。壊さずに残す。客の一人が言った、「ぼくたちには記憶の義務がある」。聞き慣れないが、記憶の義務とはすばらしい発想だ。「オレの頭だ、忘れようと勝手だろ」ではないのである。

小題軽話(その4)

地と図  地と図には関係がある。あるもの(図)が他のもの(地)を背景にする時、図が浮き上って見えてくる。何かを別の何かになぞらえる、あるいは見立てるということが生じる。ルビンのさかずきと顔の絵でよく知られている。言うまでもなく、ルビンのあの絵にはゲシュタルトが仕込まれている。絵だけでなく、ことばでも起こる。何ら仕込みをしなくても、あることばが他のことば群の中で際立って知覚されることがある。たとえば、あるテーマについて考えるとする。それをテーマという対象と自分とのやりとりに見立てることができる。実際にやりとりしてみると、すでにわかっていることが地になり、わからないことが図として現れる。そして、考えるという行為が不足探しだということに気づく。

強がる弱さ  臆病で引っ込み思案のくせに、見栄だけは一人前に張ってみせ、力関係を天秤にかけては虚勢を強さに変えようとする。「強がり」は真の強者には無縁。それは弱者の振る舞いだ。老子は「柔弱」の価値を讃えたが、「強がる弱さ」はもっとも柔弱から遠いと言わざるをえない。強かろうが弱かろうが、短絡的に弱さを見せることもなければ強がってみることもない。分相応に力を発揮すればいいわけだ。外交戦略のように駆け引き過剰、強がり一辺倒には芸がなく、逆に相手に手の内を読まれてしまいかねない。あれこれとカモフラージュする暇があったら、素直に徹するのがいい。素直が強いのである。

疲れたらどうする?  根岸英一博士は「根岸カップリング」で有名だ。根岸カップリングとは、有機亜鉛化合物と有機ハロゲン化合物とを……から始めて最後まで説明できないし、仮に説明できたとしてもこの際あまり関係がない。その根岸博士が、ある時チャーチル首相の本を手に取り、その冒頭の文章に大いに刺激を受けたという。「Aで疲れたら、何もしないのではなく、Bをやってみる」。うまくいかないことや疲れることがあれば、凡人は何もしない時間を作ろうとする。しかし、何もしない時間が過ぎれば、やがてうまくいかなかった作業に戻らざるをえない。以前にもまして疲れるかもしれない。もとより、何もしないことで疲れが癒される保障などない。Aで疲れてBでも疲れる可能性はあるが、BAへのヒントになるかもしれないと考えるのが非凡な発想なのである。

おばあさんの手紙は長い  「時間をたいせつに」とか「忙しければ、ひとまず短い簡単なメールか電話を」などという。ビジネスマナー論として語るまでもなく、みんなわかっていることだ。わかっているのにできないのは、時間がないとか忙しいと言いながらも、能力がないか暇な時間があるからだろう。英国に「おあばあさんの手紙は長い」という言い回しがある。毎日時間がたっぷりあるお年寄りは、いったん手紙を書き始めたらなかなかペンが止まらない。冷静に考えれば、お年寄りは日々時間があっても、人生の時間は残り少ない。人生のことを考えたら、長い手紙ばかり書いているわけにもいかないはず。しかし、時間は量なのではなく、感覚だ。時間はあると思えばあり、ないと思えばないのである。

小題軽話(その3)

懲りずにノートの話  何かが気になるのは、その何かを覚えているから。脳やノートに手掛かりのある状態だ。しかし、たいていの事柄は「時限記録」。安物の感熱紙かホワイトボードに書かれた文字のように、いずれは消えるか消されてしまう。消えるのは思い起こしをしないから。消されるのは外部から刺激的な情報が入り込んできて取って代わるからである。インプットした情報は脳に永久記憶されるのではない。ノートに書いても、書いたことを即座に思い出すには別の能力がいる。「参照力」とか「引き出し力」のことだが、書いたものを何度も読み返し、書いた当時の思いを再生する以外にこの能力を維持する方法はない。

思い出し笑い  たとえば喫茶店で一人でいる時、自分が思い出し笑いをしていても気づきにくい。しかし、斜め向かいのテーブルの他人が思い出し笑いをしているのには気づく。思い出し笑いを観察する趣味はないが、一度見てしまったら、何度か視線を向けることになる。どうでもいいのに、なぜ笑っているのだろうか……と想像したりする。やがて気味悪くなる。しかし、もっと気味悪いのは「思い出し作り笑い」である。

強い意志!  すごい決意表明をした男がいた。「何が何でも決めたことをやり遂げる。これまでの悪習を排除して、日々小さな善行に努める。これは自分との絶対に破らない約束だ。これからは他人の模範となる存在として生きていく」。彼のことをよく知っている。三日坊主を絵に画いたような人物である。寒気がした。そして、ふと思った。「理念やビジョンを語るのに能力はいらない、ただ厚かましく意志もどきを表明すればいい」。

ブランドとブランディング  そもそもブランドとはすでに顧客が認めている価値ではないのか。長年にわたって共感や信頼を得てきたイメージではないのか。しかも、ほとんどのブランドは「ブランドとして認知されるように育て上げよう」などという戦略を立てたとは思えない。企んでブランディングした俄かブランドははたしてブランドなのか。うわべはそうかもしれないが、ブランドの体幹が違っている。正真正銘のブランドに注釈はいらない。余計なことを言ったり示したりしなくてもいいのである。

銅板と銅製品  「平たい銅版から銅製品が作られる」(A)と言えばわかりやすい。誤解の余地はない。しかし、この一文は銅にしか通用しない。銅以外の素材や製品にも使える表現はないものか。ある。「二次元の材料から三次元の造形をおこなう」(B)と言えばいい。Bの表現にはAに比べて抽象的で小難しいというケチがつく。このような概念的言い回しはとっつきにくいが、高次の知には欠かせない。Bは、Aにはもちろん、それ以外の諸々にも還元できるのである。

小題軽話(その2)

汽車か馬車か  旅するにあたって、アンデルセンは馬車よりも汽車のほうがよいと考えていた。常識的に考えれば、馬車のほうが旅情に溢れていると思うのだが、「汽車では旅情が失われるというのはウソだ」とアンデルセンは主張した。ぎゅうぎゅう詰めの馬車よりも汽車のほうが快適、しかも景色をよく見せてくれる、馬車は旅の時間を間延びさせているにすぎない……というのが理由だった。きっぱりと過去への未練を捨てたのが産業革命時代だったが、その一つの例かもしれない。

ジョークのマナー  「あの人はにこりともせず淡々とジョークを語る。クールだが、とっつきにくく、不気味でさえある」と評された男がいる(どちらかと言えば、ぼくも同類だが、その男はぼくではない)。彼の肩を持ちたいと思う。にこにこ笑ってジョークを披露するなどありえない。素人や安物の芸人ならやりかねないが、ジョークの達者な語り部は表情一つ変えない。過剰なジェスチャーもしない。それがマナーなのだ。

ジョークの役割  これはぼく自身の話である。講演や研修でコミュニケーションや思考、企画やリテラシーを扱う都合上、どうしても難解な術語が出てきたり硬派な講話に傾いたりする。少しでもやわらげるために笑話やジョークをはさむ。一種の糖衣効果、あるいは、話がやさしく聞こえるプラシーボである。しかし、後日よく言われることがある。「いやあ、核心の話はほとんど覚えていませんが、講義で聞いたジョーク、あちこちで使わせてもらっています」。

幸せは束の間  やせ細ったねずみが果樹園に小さな穴を見つけた。まったく苦労なく中に入れた。各種フルーツ食べ放題。その日からねずみは頬張り貪り、毎日腹いっぱい幸せいっぱいの日々を送った。ある日、ねずみは仲間のことが無性に恋しくなった。抜け穴から外に出ようとするが、すっかり太ってしまって穴を通れない。「元のようにスリムにならないと古巣に戻れないのか……」。ねずみはその日から一切フルーツに手をつけず絶食した。すっかりやせ細ったねずみは穴をくぐり、腹を空かせながら仲間の所に帰って行った。おしまい。

スイッチのON/OFF  オン/オフというのは切り替えである。仕事と休暇、気分、緩急、公私……どんなことにも切り替えが必要。誰かに命じられて切り替えるよりは、自らスイッチを操りたい。上手にスイッチを切り替えて他者に働きかけ、人間関係の中で生きていることをつくづく実感したい。ところが、最近感じるのだが、スイッチを持っているのにずっとオンずっとオフのままで、切り替えない人がいる。故障しているのに修理しない人もいる。そして、とても不思議なのだが、そもそもスイッチを持たない人が急増中なのである。

小題軽話(その1)

一つのテーマについて一応の筋道を立てて小文を書くのは、たとえそれが仕事ではなく、私的な慰みのブログであってもエネルギーを使う。頭が働かない夏場は特にきつい。と言うわけで、先月から整理していた過去ノートから断片メモを拾い、小ネタを肩肘張らずに扱うことにした。〈小題軽話〉という表題を掲げたが、この意図通りに書けるかどうかは不明。

すぐに気づかないダジャレ  書評会で立川談四楼の『もっと声に出して笑える日本語』を取り上げたことがある。実話をネタにしたダジャレや小話満載の文庫本。たとえば、クイズ番組でパネルの好きな番号を選んでもらったら、具志堅用高が「ラッキーセブンの5」と言ったという話。このおかしさにはすぐに気づく。しかし、次のはどうだろう。

面接官 「ところで、家業は何ですか?」
応募者 「カキクケコです」。

これ、文章を読むとすぐにピンとこないが、聞くだけなら「家業」と「か行」のダジャレに気づきやすい。笑わせる小話を文で綴るのはやさしくない。

星占い  いつぞやの水瓶座の今日の占いに「自分へのご褒美に少しぜいたくを」と書いてあった。大した仕事ができていない日々で、ご褒美などありえなかった。それに、休みの日ならともかく、平日に仕事の合間をぬってのぜいたくにどんなものがあるのか思い浮かばない。朝一番にこの占いを見ていたら、提案に乗ってステーキランチという手もあっただろうが、占いを見たのは夜も更けてからだった。今日の星占いは朝一番に見るもので、一日の終わりに見てしまっては後の祭りである。

悩んだらサイコロ  悩んだら、「えいやっ!」と答えを出せばいいと思うのだが、悩む人の場合はなかなかそうはいかないようである。答えが見つからないから悩む。正しい答えを出さねばならないと思うから決断が遅くなる。正しい答えではなく、納得する答えを選べばいいのに。とは言え、たとえばABの選択にあたって悩むのは、AにもBにも納得できず、第三の道も見つからないからだ。あるいは、ABの納得度が五分五分で踏ん切りがつかないということもある。限界まで考えても悩みが消えず、しかも時間が切迫してきたら、覚悟を決めてサイコロを振るしかない。このような助言をしたことは何度もあるが、そもそも悩む人は、サイコロを振るか振らないかで一から悩み始める。

記憶と世界  記憶力がよいのも良し悪しと言う人がいる。記憶が良すぎると嫌なことも覚えてしまって困ると言うのだ。記憶力の悪い人への慰めにすぎない。記憶力が悪ければ、嫌なことを忘れるが素敵なことも忘れるではないか。最近とみに、ぼくの周囲の四十代半ばを過ぎた面々に物忘れのひどいのが増えてきた。良きも悪しきも分別なく平気で忘れてしまう。本人に困っている様子はない。困るのは回りの人間のほうである。ぼくたちは過去と記憶で繋がっている。過去の経験や思い出は写真や記念品を介して甦ることがあるが、写真や記念品に頼らずに脳内で自力再生できる記憶力が重要なのだ。四十代で思い出しづらい兆候が出てくると、還暦過ぎる頃には危険である。記憶を通じてぼくたちは世界とも繋がっている。記憶が弱まり衰えると世界が見づらくなる。ここで言う世界とは、現在の仕事や私事、他人、日常生活、言語のことである。

行きつけの店

昨夜、半年ぶりになじみの蕎麦屋に寄り、ざる蕎麦を注文した。徒歩圏内には名の通った蕎麦屋が数軒あるが、蕎麦はここでしか食べない。実は、ぼくが勝手になじんでいると思っているだけで、店にとってぼくは常連客ではない。十数回ほど足を運んでいるが、月に二、三度という頻度ではない。それどころか、半年や一年空くことすらある。顔を薄っすらと覚えている店員がいるかどうかも怪しい。

タイトルを書いてから、山口瞳に『行きつけの店』という本があるのを思い出した。池波正太郎の『ル・パスタン』にもその類の話が出てくる。行きつけとは気になる表現である。今朝、ドイツ文学者の池内紀の新刊『すごいトシヨリBOOK』が朝刊の広告欄に出ていた。抜き書きに「自分の居酒屋、自分の蕎麦屋を持つ」とある。はたしてぼくに「自分の」と言えるような飲食店があるのか。

働き盛りの二十数年間、接待をする側でもありされる側でもあり、ずいぶん贅沢な店でご馳走をいただいてきた。元々食材や料理に人並み以上に食い意地が張り、強い好奇心があったので、私費でもいろんな店を覗いてきた。今のようにスマホで食事処を事前にチェックすることはなかったから、見当をつけた店に入るのは賭けだった。どちらかと言うと、一見の勘は良いほうで、十軒のれんをくぐったらだいたい八勝二敗という感じである。


昔はジャンル別に行きつけの店がそれぞれ二、三軒あった。複数の店でぼくは確実に常連扱いされていた。今ではほとんどない。広告にあった前掲の本では、歳を取ってこその行きつけの店を「自分の居酒屋、自分の蕎麦屋」と言っているようだが、ちょくちょく行く店で、店主がぼくをよく知っている店は数えるほどしかない。オフィス近くなら、隣りのつけ麺店と二つ通り向こうの喫茶店くらいのものだ。酒がなくて困るタイプではないので居酒屋にはほとんど足を運ばない。自分の居酒屋は過去にもなかったし今もない。

「行きつけの」とか「自分の」とか言えるような店などいらないとずっと思ってきたが、昨夜久々の蕎麦屋に行き、今朝偶然に本の広告を見て、ちょっと考えが変わった。行きつけの蕎麦屋、行きつけの立ち飲み、行きつけのバー、行きつけの食堂……この歳だからこそあってもいいのではないか。周囲にこれといった居酒屋はない。気に入っていたバーは閉店した。おかずを選べるような大衆食堂は消えて久しい。まずは昨夜の蕎麦屋をもう少しひいきしてみようと思った次第である。

いきなり二八のざる蕎麦のつもりが、夜の九時前だというのに先客たちはみんな料理を食べて飲んでいる。釣られるように瓶ビールを注文した。グラスはヱビスだがビールは黒ラベル。あてにはいつもの裏ごしおから。この店でこの一品を所望しなかったことは一度もない。

辛味大根にほどよく刺激され、蕎麦の噛み心地、喉越しは申し分なかった。久しぶりなのに落ち着くのは、心のどこかで「自分の蕎麦屋」と思っているからだろう。大晦日に訪れるだけではもったいない店だと思いながら店を出た。いい夜風が吹いていた昨夜であった。

二項対立から見えるもの

日々、いろいろと考えることが多い。仕事も予定も出来事も現象も、すべてことばで搦め取って考える。考えるきっかけになるのは一つの用語だが、その用語だけでは早晩行き詰まるので、二項対立関係にある別の用語を呼び起こす。二項対立というのは特別な世界に限らず、日常頻繁に現れる。説明代わりに、二項対立する用語を並べてみた(一部は対置と言うのがふさわしいが、便宜上「⇔」の印で関係を示す)。

〈優位⇔劣位〉
〈勝者⇔敗者〉
〈天使⇔悪魔〉
〈上位⇔下位〉
〈内容⇔形式〉
〈中心⇔周縁〉
〈ハレ⇔ケ〉
〈現実⇔虚構〉
〈本物⇔偽物〉
〈文明⇔野蛮〉
〈知性⇔感性〉
〈理性⇔野性〉
〈正常⇔異常〉
〈作者⇔読者〉
〈健康⇔病気〉
〈ホンネ⇔タテマエ〉
〈生産⇔消費〉
〈売り手⇔買い手〉
〈音声⇔文字〉
〈正統⇔異端〉
〈帝国⇔植民地〉
〈自己⇔他者〉
〈問い⇔答え〉
〈コピー⇔オリジナル〉

二項対立と二律背反は一見酷似していて区別しづらい。以前拙文を書き、そこでは違いについて少し説明しておいた(『二項対立と二律背反』)。今からここに書くのは違いがわからなくても理解に困らない話である。

上記の例を見てもわかる通り、二項対立とは言うものの、並べた二つの用語が必ずしも喧嘩腰になっているわけではない。二項対立はおおむね対義語関係にもなるが、対義語は意味の対立だけに焦点を当てる。他方、二項対立は、意味の他に、考え方や日常の生き様へと概念を広げる。その時、二項は対立と言うよりも、対比・対置、場合によっては両立・調和の関係にもなりうる。たとえば、後述する「ワークとライフ」などはバランスという表現とも相性がいい。


ところで、刺身の対義語は何か。レアステーキ? いや、そうではない。刺身に対義語などないのだ。しかし、「刺身とわさび」という二項対立ならありうる。性質は相容れないが、実食すれば二項は協調する。美しいの対義語は醜いだが、二項対立なら美しいに対しておもしろいを置ける。誰にでも当てはまるわけではないが、ぼくはこの二つをよく対置させてきた。愉快や洒脱のほうが美よりも粋だと思うし、おもしろさは無邪気であり憎めないが、美しさは時折り罪をつくる。「そのジョークは聞き飽きた」などと言うが、ほんとうによくできたジョークは、名立たる古典落語と同じで、何度聞いたり読んだりしても退屈しない。もちろん、いつまでもじっと眺めていたい美しい風景もある。しかし、どちらかを選べと迫られたら、美しさよりもおもしろさのほうに心が動く。

良い(GOOD)の対義語は悪い(BAD)であり、「良いと悪い」の二項はたいてい対立する。良い悪いの判断は多分に感情の起伏によって下される。理性的判断ができないわけではないが、それは判断する当の本人の感情が安定していて、客観的に状況を眺められる場合に限る。絶対的に良い、絶対的に悪いなどということはない。つねに別の何かとの対比においての良し悪しである。財布を落としたが無事に戻ってきたなら、理性的にはプラスマイナスゼロだ。しかし、感情的には、落胆から歓喜に一転して良しとなる。

ワークだけをテーマにするよりも、ライフを併せるほうが考えも判断も明快になる。二項対立させてこそ見えてくるものがあるのだ。ワークライフバランスというはやりの言い方は、元来仕事と生活が両立しがたいという認識から生まれている。もしそうでないのなら、最初から「ワークアンドライフ」と言えば済む。対立の図として見ていた概念を、両立の図として見直そうとしたのがワークライフバランスだったはずである。

ワークとライフをもう一歩踏み込んで、ハードワークとスローライフとして二項対立させてみよう。働き盛りの子育て世代にとってはスローライフなどは夢のまた夢だ。そんな生活になじんでしまうと、仕事のハードルが高くなるのではという不安が先立つ。

ここで視点を変えてみる。きみは余裕のあるスローライフと慌ただしいファーストライフのどちらを願うのか? もちろんスローライフだろう。では、のろまな仕事とてきぱきとした仕事ならどちらか? てきぱきとした仕事だろう。それはハードかつスピーディーなワークにほかならない。ぐずぐずのんびり生きていては厳しさやスピードに対応できない。逆に、てきぱきとハードワークする習慣を身に付ければ、余裕が生まれスローライフへの展望が開ける。そう、ハードワークしなければスローライフは実現しない。楽な仕事をして生活を楽しもうという魂胆はさもしいのである。

点と線の経験

昨年のとある日、在宅で仕事をしていた。電話やふいの来客に邪魔されない自宅のほうが仕事がはかどることがある。しかし、そうでないこともある。その日は少々順調さを欠いたので、気晴らしに外出することにした。いつもの古本屋に寄り、お決まりのように本を漁った。会計しようとして財布にポイントカードがないのに気づく。その数日前に出張があり、出掛ける前に分厚い財布が気になり、必要なさそうなカード類を数枚取り出していたのだ。

数冊のうちの一冊が『そら色の窓』。帰り道に喫茶店に寄ってその一冊をテーブルに置く。イラストレーターの著者自らがイラストを描いているらしい。自分が書いた文章の主題にふさわしいイラストは、絵心があるのなら自分で描くのがいい。意図からずれにくいからだ。著者はプロだから、当然自分で描いた。

本をめくる前に、この書名をどんなテーマイラストとして表現したのか想像してみた。絵は想像とはかなりかけ離れていた。鉛筆のアバウトな線で四角をかたどって窓枠に見立て、これまたアバウトなタッチで空色をささっと塗っている。窓が窓らしくない。理屈っぽい作家ならもっと精細に描いたに違いない。しかし、そのアバウトなイラストにほっとした。う~ん、人は理屈で疲れるんだなあ。


理屈をほぐすには、気ままな心象風景を主役にするのがよさそうだ。「そら色」に触発されて、いつぞや見た盛夏のあの緑を連想する。記憶はアバウトである。清新の気に満たされた午後になればと願いながらも、綴っている自分の文章には、気づかぬままに一本の理屈の線が引かれていた。習性を封じ込めるのはたやすくない。

ぼくのその習性とは、その時々の経験を点として放置せず、自分固有の経験と知識を一つの線にしようとすること。散在する点あっての線なのか、線あっての点の集まりなのか……よくわからないが、線を点よりも優位に置くことが多い。

人は誰しも、直近の点に、あたかも無私の境地に置かれたかのように、その点の瞬発力に機械的に反応してしまう。無私とは、それまでの経験や知識をリセットすることだ。そのつどの点の経験は一種のアドリブである。これをいちいち線の経験につなげようとするのは野暮かもしれない。しかし、点描画が無数の点を意味ある絵としてあぶり出すように、点の経験を過去の記憶につなげて線にしてみるべきではないのか。いや、線にしてみるべきだなどと肩肘張らずとも、無意識のうちに「過去は〈今ここ〉に立ち現れている」(中島義道)のではないか。その過去を見逃すのは惜しい。

大過去の彼方に消えて それがいま現れたなら不思議成立 /   岡野勝志

路地のある光景

「ろじ」を露路と表記すれば茶室へと導く通路の意味になる。そんな風情は周辺には見当たらない。だから、路地と書く。裏町の民家と民家の間の狭い通りのことである。

ぼくの住む街は、かつて町家だったと思われる痕跡を今もあちこちに留めている。実際、林立するマンション群の隙間に解体を免れている町家が少なからず点在する。町家ある所、路地も残る。表通りに佇んで路地を覗き、好奇心に促されてそろりそろりと進めば、狭い小道の左右に民家が立ち並ぶ光景に出合う。迷路と呼ぶほどの複雑な構造ではないが、近道だろうと思って入り込んだのはいいが、行き止まりということはよくある。

稀に旧住所を示す標識やブリキ製の看板が板塀に残っているが、路地を路地らしく装っていた小道具の大半は姿を消した。今では自転車やバイクが停めてあったりする。ちょっと奥へ進むと、町家を改造した雑貨店やカフェが出現する。それでも、表通りから眺める遠近感と光と陰翳の微妙な綾は、昔も今も大きく変わらない。


民家の立ち並ぶ表通りを歩けば、ちょうどいい具合に路地が一定のリズムで現れる。家、家、家、家……そして路地……という配置は心地よく、そぞろ歩きしていても飽きることはない。しかし、数カ月も経とうものなら、いくつかの隣り合った町家が壊されて更地になり、路地も消える。翌年になると光景がビルやマンションに一変していることも珍しくない。

ぼくにとっては路地ではない幅広い道なのに、それを路地と呼ぶ人もいる。その人の路地には軽自動車が入ってしまう。車が入ったりすると、もはや路地ではない。路地は人々の日常の生活と歩行を保障する治外法権的な地帯でなければならない。時に、よそ者の通行人も招き入れてくれる。

路地は暮らしやすさのバロメーターなのではないか。その街に住んでよし、歩いてよし。それはまた、街を小さく区分してちょうどよい戸数、ちょうどよい人数で共同生活する上での知恵のようにも思える。というふうに、懐かしく好意的に見るのだが、半時間ほど歩いてもなかなか子どもたちが遊ぶ姿にはお目にかからない。路地の奥まった家々ではひとりぽっちでゲームに興じているに違いない。路地の面影はかろうじて留めていても、人々のライフスタイルは様変わりしたのである。