タッチや触れるという意味の「さわり」ではなく、主として物語や楽曲に言及する時の「さわり」について取り上げたい。と言うのも、意味を間違って理解している人が半数を上回ると知ったからだ。
ぼくが見た資料には「誤用」と書いてあったが、さわりということばを使おうとする人はあまり間違わないと思う。自分で使ったことがなく、もっぱら見聞きする側にいて何となくわかったような気になる人が「誤解」しているのではないか。
ずいぶん前の話だが、企業の情報誌に「ほんのさわり」というタイトルの書評コラムがあった。「本の」ではなく「ほんの」と表記したために、「ちょっとした」という意味に取られたようだ。「本のちょっとしたさわり」と読めば、簡単な要約か最初の書き出しのように思うのも無理はない。さわりもちょっと触れるという感じだから、なおさらである。
「さわり」とは出だしやイントロのことではない。物語や楽曲の一番感動的で興味をそそるハイライトのことである。物語なら読ませどころ、楽曲なら聞かせどころ、そして舞台なら見せどころである。曲のサビや物語のクライマックスがさわり。にもかかわらず、「では、ほんのさわりだけ、少し」というような言い方をするから、クライマックスのことだとは思えないのだろう。
さわりは浄瑠璃由来なので、それに類するような朗読、音楽、演劇、講演には使える。1時間のうち半時間がさわりということはおそらくないので、たとえば「通常1時間の講演ですが、今日はさわりだけ10分で」という使い方になる。
さわりを比喩的に使う例はあまり見聞きしたことがない。「本日の晩餐、コース料理のさわりは……」などとは言わない。和食でも洋食でも「さわりの一皿」は主菜に決まっているから、わざわざ比喩として使う出番はほとんどない。