帰納法の取り扱い

以前、知人が自分の専門分野の事例をブログで紹介していた。ほぼ毎日である。いくつかの事例から共通項を見つけて一般法則を導き出すのを〈帰納法〉という。事例は複数であるべきだが、知り合いは一日1事例を取り上げるだけで、即一般化していたのである。

1事例即一般化」とは、たとえば「じっくりコトコト煮込んだスープ」というネーミングでヒットした商品を事例として、「スープの名称は長いほど売れる」という一般法則を導くような場合。これには簡単にアンチテーゼを唱えることができる。短い名称でよく売れているスープを示せば済む。

複数の事例から一般法則を導けても、帰納法の「賞味期限」は案外短い。例外事例が出てくると、法則を見直す必要に迫られる。価値が多様化する時代、何事においても一つのセオリーでやりくりはできない。多様化と一般化はたいてい相反するのである。

帰納法/帰納推理/帰納的表現は「特殊から一般」を導く。

帰納は、いくつかの(小さな)データや事例(a, b, c, d, e)から〈PQである〉という一般法則やモデルを導く。但し、部分を集めて共通項を見つけても、それが必ずしも普遍的な法則や確固とした原理になるとは言えず、結論の妥当性には不明点もつきまとう。

香川県、徳島県、愛媛県、高知県をまとめて「四国」と呼ぶのも帰納的表現。いちいち4県の名称を列挙しなくても四国でいいから便利である。もし「文具店」という表現がなかったら、鉛筆、ペン、インク、ノート、消しゴム、のり、ハサミ、ホッチキスなど延々と枚挙して看板に記さなければならない。

せっかく個々では具体的でわかりやすいのに、すべてひっくるめて帰納的表現でまとめようとすると抽象的になることがある。あるいは、新しいカテゴリーの名称を編み出す必要が出てくる。双子、三つ子、四つ子、五つ子などを「多胎児」と呼ぶのがそれ。耳から「たたいじ」を初めて聞いた時、ポカンとしたのを覚えている。

個々の元の表現よりも上位概念としてまとめた言い方がわかりづらくなっては元も子もない。帰納的表現につきまとう欠点と言うよりも、上位概念の一言でくくろうと格好をつけて見せびらかそうとするからである。すでに十分にわかりやすいのに、「要はね……」と口を挟む人がいるが、あれも帰納の一種。たいてい結論に至らない蛇足にすぎない。

ランチのこと、町中華のこと

たわいもない外食談議の折に気づいたこと。粉もんのメッカ大阪の、歴史のある住宅街でありオフィス街でもあるのに、うどん店が一つ消え二つ消え、今では徒歩圏内にはない。チェーンの店ならあるが、昔ながらの麺類一式を扱ううどん屋が見当たらないのだ。

うどんはないが、蕎麦屋は有名店も含めて56店ある。カレーとラーメンは十数年前から超激戦区なので、それぞれ10店舗は下らない。粉もんのお好み焼きと焼きそばもカレーとラーメンに次いで多い。洋食店はまずまずあるが、和食処は減った。

ここ3年出張が減って、オフィスでの弁当や近くの店での食事が増えた。ランチタイムはたいてい一人で出る。即決できそうだが、自由度が高いと逆に迷う。そして、先週と先々週に食べたものを振り返っているうちに、迷った末に中華を選択することになる。

ところで、大衆的な町中華の原点は青少年時代の「若水」という店の中華そば一択。ラーメンではなく、中華そばという呼び方が習わしだった。今思えば「五香粉」の、八角と山椒と丁子ちょうじを混ぜたような焼豚かメンマの独特の香りを漂わせる中華そば。


中華のメニューは他のジャンルよりも圧倒的な種類を誇る。麺類や飯類はもちろん、スパイス料理や揚げ物・焼き物・煮物もある。店を中華に決めるのは簡単だが、入店してから迷い始める。日替わり4種、週替わり2種だけならいいが、中華料理店のメニューは昼夜の別がないので、メニューの定番料理は昼でも注文できる。選択肢が多すぎる。

ワンタンメンと半チャーハンのセット(焼売2個付き)
醤油ラーメンと半チャーハン

迷わないようにと、どの店でも麺と半チャーハンのセットにしようと決めたことがある。店によって味が変わるから飽きないだろうし、値段も700円~850円とお得感もある。しばらく続ければ麺と半チャーハンの食レポができるかもしれないとも思った。

週始めに2日連続注文した。月曜日に入った店では日替わりの海鮮XO醤炒めに心を奪われながらも半チャーハンセットを指名。火曜日の店では日替わりの酢豚定食を我慢して、この日も初心貫徹。2日にわたるこんな食べ比べは生涯初だ。月曜日の店のチャーハンは決して「半」ではなかった。ラーメンスープの味はだいぶ違ったが、どちらも味は濃厚だった。

3日目の水曜日。中華料理店に行きかけたが、和食店の店頭に並んでいる天ぷらと惣菜の弁当を買った。濃いスープの麺と、「半」とは言え少なからぬ量のチャーハンを3日連続狙い撃ちするほど麺とチャーハン好きではない。世の中には、ランチ処には、そして中華料理店には、毎日注文を変えてみたくなる料理がいろいろあるのだ。

回想は合間を縫って

仕事中に連続する時間が途切れて「合間」ができる。待ち時間の途中にも何度も合間が生まれる。合間を縫って仕事や用事と無関係な回想をすることがある。回想と仕事や用事とのあいだに脈絡があるとは思えないが、不思議なことに合間を縫って回想したことほどよく記憶に残っている。


⏱ 樹木じゅもくについて調べたことがある。体系的に植物図鑑を読むような調べ方ではなく、断片的なエピソードを拾いたいと思った。たいてい本を読むことにしているが、この時に限ってインターネットから入ることにした。オーソドックスに「樹木」というキーワードで検索したら「樹木希林きききりん」ばかり出て来た。

⏱ 今から1年半~2年前、「大規模・・・接種会場」と書かれた立て看板が都心でよく目についた。あれが「大相撲・・・接種会場」に見えてしかたがなかったのである。大相撲は国技、そしてワクチン接種も「国のわざ」だから、雰囲気も似ている。

⏱ ことばで説明されてもわからないと不満の声。やむなくアイコンやその他のビジュアルで伝え直そうとする。しかし、そういう工夫をしても最初にことばで意図したことが伝わる保証はない。どんなにわかりやすくイメージに置き換えても、いずれはそのイメージをことばに還元しないといけないのだから。ビジュアルを工夫したパワーポイントで講演をしている時、フリップ芸人になったような気がする。

⏱ ある時、応仁の乱が「押印おういんの欄」に聞こえてしまって、それ以降はワンセットになってしまった。そして、以前読んだダジャレの本で紹介されていた「信長とゴム長」や「メルセデスと寝ぐせです」などを次から次へと回想することとなった。耳につく歌と同じで、耳につくダジャレもかなり鬱陶しい。

⏱ 鯨の五種盛りをおいしくいただいたことがある。赤身とさえずり、それに畝須うねす(ベーコン)と百尋ひゃくひろ(小腸)という難しい部位も覚えていたのに、あと一つがなかなか思い出せない。さらし鯨と尾の身と鹿の子は、実食したことがあるので、残りの一つでないことは確か。今も思い出せない。回想には思い出せることと思い出せないことが入り混じる。

⏱ コーヒーが出来上がって運ばれてくるまでの、間延びした、手持ちぶさたの時間。あの時間は「合間」そのものだった。あの時のコーヒーカップのイメージがはっきり浮かんだのでフォトライブラリーで探した。20181127日、出張先のかなり古風な喫茶店のカップと一致した。夢は寝床で、回想は喫茶店で。コーヒーの時間は回想に適している。

「ちゃんと」の作法

「ちゃんと」が口癖の、人のいい社長がいた。

社長「ちゃんと・・・・掃除したかな?」
社員「はい」
社長「トイレも?」
社員「はい」
社長「じゃあオーケー」

社長と社員の間で「ちゃんと」という基準の取り決め――たとえばチェックシート――があり、互いに了解しているなら、上記のやりとりを可としよう。ところが、「ちゃんと」という副詞は厄介な曖昧語なのだ。ちゃんとした商売とか、ちゃんとルールを守るとか、わかったようでわからないし、「ちゃんととは何だ?」と突っ込まれたら困る。

「ちゃんと」とは期待される基準から外れていないことであり、すべきことをぬかりなくおこなう様子である。仕事をちゃんとこなしているとは、その仕事で期待される基準を満たしていること。ちょうどジグゾーパズルをちゃんと合わせるように。

小難しい言い方をすれば、「ちゃんとする」は最低限の賢慮と良識を以て任に当たることである。行き当たりばったりではなく、運に任せるのではなく、自分なりの勝手な解釈をするのでもない。期待される基準とは約束事であり、それを当然のこととして遂行するのが「ちゃんと」である。

マネジメントを「管理」や「経営」と訳したために、元の「工夫してどうにかこうにかやり遂げる」という意味が薄れてしまったが、「ちゃんとする」はれっきとしたマネジメント能力である。明確な目的のない、習慣的な善行とは違って、マネジメントには任務がついてまわる。任務は上司や組織や顧客の期待に沿うようにちゃんとおこなうことが必要。

「食事はちゃんとしてる?」に対する「うん」。「明日の準備はちゃんとできてるか?」に対する「はい」。「ちゃんと」を含む問いに対してイエスと応答されると、チェックもせずに、つい信じて甘いオーケーを出してしまう。問う側は安易に使わないように気をつけないといけない。

語句の断章(45)「移民」

「他郷に移り住むこと。特に労働に従事する目的で海外に移住すること」(広辞苑)
「新しい生活や仕事の場を求めて故郷(故国)を離れて移住する人(こと)。移住者」(新明解国語辞典)

上記は辞典による「移民」の語義である。移民の目的は主として生活や仕事だが、移民それぞれには固有の事情があるはず。移民とは外国へ移住する人たち。異なった国の民がよその国に移る民となって、新たな国で再出発する民になるのである。移民の「民」の色は薄くなるが、それでいい。「移」にこそ本来の意味があるのだから。

移民と住民は同じではないし、いきなり同等にはならない。民族が違うゆえの差別もあるが、何よりもまずその国の「市民」としてのキャリアがないから、扱いや立場が異なるのである。職業のキャリアではない。先祖からその国に住み続けて貢献してきた諸々の実績などの経歴である。定住生活者と同じ待遇と権利を今日入国してきた移民が持てば、既得権者側に不公平感が生まれる。


「当局」からすれば、放浪する人間よりも一カ所に留まる人間のほうが安心できるし、住所不定よりも戸籍があるほうが信頼できる。移民や放浪の民に対する偏見は拭い難い。しかし、物理的な移り変わり以上に、人は精神的に価値観的に移ろいながら生きて行く。一つ所にいるにせよ、すべての人は昨日から今日への、今日から明日への移民なのだ。

同じ場所で遊んでいる子を見守るほうが親は楽だ。あちこちで動き回られるとコントロールしづらい。住民に対する当局の心理もこれに似ている。定住は統治する当局にとって都合がいい。身元もはっきりするし、安定した税収が期待できる。当局は、そこに生まれて育った人に生活者として居住し続けて欲しいのだ。

先住者が移住者に偏見の目を向けるのはやむをえない。流浪の民はどこに行っても定住できず、迫害を受けてきた。しかし、他方、移住者が先住者の土地を植民地化して、支配下に置いて属領とした時代も歴史の大半を占める。事例としてはそのほうが圧倒的に多い。移民問題はいつの時代も力関係に操られる。

抜き書き録〈2023年10月〉

読書の秋だが、仕事の秋でもあるので、悠長に本を読む時間があまりない。だいぶ以前に読んでノートに抜き書きしていた箇所を、原典に還って再読した。楽だと思ったが、初めて読むのと違いはない。と言うわけで、取り上げるのはわずかに2冊だけ。


📖 『論語』

子貢問曰、「有一言而可以終身行之者乎」。
子曰、「其恕乎。己所不欲、勿施於人」。

子貢しこう問ひて曰く、一言いちげんにして以て終身これおこなき者有りや。のたまはく、じょか。己の欲せざる所、人に施すことなかれ。)

孔子の弟子の子貢が「生涯おこない続けるに値する一言のことばがあるでしょうか?」と尋ねた。世にある万言の中からたった一つというのはちょっと無理がありそうだが、孔子は「それは恕だろうな」と即答した。そして、「自分がされたら嫌だと思うことは、他人にしてはいけないのだよ」と言った。

「恕」という漢字を知ったのはこの時が初めて。恕は見るからに「いか(り)」や「うら(み)」に似ているから、よからぬ意味だろうと直感した。実は、「他人の心情に対する思いやり」の意だった。直感はまったくハズレていた。

「あなたがパワハラされるのが嫌なら他人にパワハラをするな」と教えるのは、「己の欲せざるところを他人に施すなかれ」に即している。対照的なのは『新約聖書』の「己の欲するところを他人に施せ」だ。「パンを分け与えて欲しいなら他人にもパンを分け与えよう」が一例。この例なら思いやりがあるから恕の精神と同である。しかし、自虐的な人の場合だと「あなたがイジメられたいのなら他人もイジメてあげよう」になってしまう。マゾヒストのあなたがサディストに変身しなければならなくなる。

📖 『知的複眼思考法』(苅谷剛彦著)

書名からハウツー本と勘違いされそうだが、いろいろと考えさせられる、中身の濃いテーマを扱っている。

• ほかの人の意見に対し、「そんなものかなあ」と思って、自分で十分に納得しているわけではないけれど、「まあいいか」とやり過ごしてしまった。
• 本当は、ちょっと引っかかるところもあるのだけれど、「そういわれれば、そうかなあ」と、人の意見を消極的に受け入れた。
• 「あなたの意見はどうですか」と聞かれた時、少しはいいたいことがあるのに、はっきりと自分の考えがまとめられずに、結局は「とくにありません」と答えてしまった。

著者は、上記の反応をする人たちを発想に乏しい人の典型と見なす。この種の人たちがこのような振る舞いを延々と続けることは想像に難くない。「自分で十分に納得しているわけではない」「ちょっと引っかかるところもある」「少しはいいたいことがある」というホンネは心にずっと居座り続けるが、斟酌してもらえることはない。

「言いたいことが言えない」という日々を送っているうちに、人前では話さないぞ、なぜなら話したってわかりっこないからだと自己説得してダンマリを決め込んでしまう。やがて言えない能力は言わない能力のことであって、言える能力よりもすぐれていると考え始める。こうして問題はすり替えられて、言える人はただの口達者な技術屋にされてしまうのだ。

新種が新種だとわかるには……

新型コロナウィルスが注目される直前の20191月、高知県に数日出張していた。当初から1日余裕ができるスケジュールだったので、度々出張で来ていたのに一度も機会がなかった牧野植物園を訪れることにした。周遊バスは市街を後にして、港を展望できる五代山を上がっていく。

美術館や博物館巡りは好きだが、辛抱が足りないほうなので、展覧会の大小にかかわらずだいたい1時間ちょっとの鑑賞が限界である。それなのに、あの広大な植物園の館内や屋外をくまなくじっくり歩き、3時間近く費やした。これはあのルーブル博物館の滞在時間に匹敵する。

牧野富太郎の生涯を描いた朝ドラ『らんまん』が先週で終わった。方々の野山を歩いて植物を採集し、自ら発見した新種は約600種と言われる。発見というのは不思議な概念だ。誰かがそれまでに見つけていても、一般的に知られていなければ未知として扱われる。しかし、日本で発見して喜んでも、世界を視野に入れるとすでに発見されているかもしれない。


これまで商品のネーミングをいろいろ依頼されてきたが、そのうち商標登録を2件手掛けた。担当してくれた国際特許の専門家はコンピュータを使ってあっと言う間に「新案」として申請した。こんなふうに今ならすぐに「新」がわかる。しかし、牧野の時代、コンピュータはおろか、植物図鑑や標本も充実しておらず、世界初だと認定してもらうのは一筋縄ではいかなかった。

新種Aを発見したと言えるためには、「それ」が正真正銘の新しい種であり、かつて誰も「それ」を見つけておらず、自分が最初だということを証明しなければならない。そのためには、類似の様々なの標本と照合して、まったく同一ではなく、差異があることを明らかにする必要がある。

新しいかもしれないものを「既知」と照らし合わせて差異や類似を見い出す。既知は既知でも「自分の記憶や知識」との照合ではダメで、公認された既知でなくてはならない。何かと比較もせずに、一つのものをそれ単独で明らかにしても新種にも新案にもなりえないのだ。

新種の発見や新案の発明は大変なミッションである。今となってはチャレンジする能力も気力もない。それどころか、想像するだけで、「新しい」ということばすら安易に使えなくなる。