読書の秋だが、仕事の秋でもあるので、悠長に本を読む時間があまりない。だいぶ以前に読んでノートに抜き書きしていた箇所を、原典に還って再読した。楽だと思ったが、初めて読むのと違いはない。と言うわけで、取り上げるのはわずかに2冊だけ。
📖 『論語』
子貢問曰、「有一言而可以終身行之者乎」。
子曰、「其恕乎。己所不欲、勿施於人」。
(子貢問ひて曰く、一言にして以て終身之を行ふ可き者有りや。子曰く、其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。)
孔子の弟子の子貢が「生涯おこない続けるに値する一言のことばがあるでしょうか?」と尋ねた。世にある万言の中からたった一つというのはちょっと無理がありそうだが、孔子は「それは恕だろうな」と即答した。そして、「自分がされたら嫌だと思うことは、他人にしてはいけないのだよ」と言った。
「恕」という漢字を知ったのはこの時が初めて。恕は見るからに「怒(り)」や「怨(み)」に似ているから、よからぬ意味だろうと直感した。実は、「他人の心情に対する思いやり」の意だった。直感はまったくハズレていた。
「あなたがパワハラされるのが嫌なら他人にパワハラをするな」と教えるのは、「己の欲せざるところを他人に施すなかれ」に即している。対照的なのは『新約聖書』の「己の欲するところを他人に施せ」だ。「パンを分け与えて欲しいなら他人にもパンを分け与えよう」が一例。この例なら思いやりがあるから恕の精神と同である。しかし、自虐的な人の場合だと「あなたがイジメられたいのなら他人もイジメてあげよう」になってしまう。マゾヒストのあなたがサディストに変身しなければならなくなる。
📖 『知的複眼思考法』(苅谷剛彦著)
書名からハウツー本と勘違いされそうだが、いろいろと考えさせられる、中身の濃いテーマを扱っている。
• ほかの人の意見に対し、「そんなものかなあ」と思って、自分で十分に納得しているわけではないけれど、「まあいいか」とやり過ごしてしまった。
• 本当は、ちょっと引っかかるところもあるのだけれど、「そういわれれば、そうかなあ」と、人の意見を消極的に受け入れた。
• 「あなたの意見はどうですか」と聞かれた時、少しはいいたいことがあるのに、はっきりと自分の考えがまとめられずに、結局は「とくにありません」と答えてしまった。
著者は、上記の反応をする人たちを発想に乏しい人の典型と見なす。この種の人たちがこのような振る舞いを延々と続けることは想像に難くない。「自分で十分に納得しているわけではない」「ちょっと引っかかるところもある」「少しはいいたいことがある」というホンネは心にずっと居座り続けるが、斟酌してもらえることはない。
「言いたいことが言えない」という日々を送っているうちに、人前では話さないぞ、なぜなら話したってわかりっこないからだと自己説得してダンマリを決め込んでしまう。やがて言えない能力は言わない能力のことであって、言える能力よりもすぐれていると考え始める。こうして問題はすり替えられて、言える人はただの口達者な技術屋にされてしまうのだ。