ことばについての雑考

雑念ではなく「雑考」のつもり。特に系統立ててはいないが、個々の考察をいい加減にしたわけではない。たまたま「ことば」をテーマにして話す機会があったので、経験したことや経験に基づいて考えたことを断片的に記述した次第。


 ことばが概念を生む。概念はことばをイメージ化したもの、またはイメージ的なことば。この過程を経て具体的な造形が生まれる。造形のみならず、創作と呼ばれるものは何もかもがことばと概念の賜物である。ことばと概念が未成熟のままでは「カタチ」として顕在化することはない。

 「言論の自由」について考えようとする時に、「自由とは何か」の解釈に力を入れて考え抜いても〈自由〉がわかりやすくなることはない。言論の自由で重要なのは〈言論〉のほうだと思う。「言論とは何か?」を棚上げしたままで、やれ自由だ、やれ不自由だなどと論じてもどうにもならないのである。

 「意見を言うのが苦手です」と言い訳する時間があったら、余計なことを考えずにさっさと喋るか何も言わずに黙っていればいい。ある場面で喋るか黙るかを見極めるのは難しい。黙るべき場面なのに一言余計なことを言いかねず、また、喋るべき場面でチャンスを見送って後日悔やむ。喋るべき時に喋り、黙るべき時に黙るという、この自然のおこないがなかなか上手にできないのである。

 「文章を見直して書き直してほしい」という依頼がある。英文から翻訳したけれど、あまりこなれていない、何とかならないか? という相談もある(この場合、英文も見せてもらう)。こういう仕事をいったい何と呼べばいいのか。代書屋ではない。文章を書き替えるが、文字づらだけの直しでは済まず、言わんとする意味を汲んで文案を練ることになる。本業とは別に〈文章工房すいこう〉という屋号を考えた。「推敲」とは苦心して文章表現を工夫すること。原文あっての推敲文だが、原文よりも苦労が多い。

 景色に前景と後景があるように、ことばの概念や配置にも前景と後景がある。「象は鼻が長い」は「は」と「が」の違いによって、大きな概念の象を後景として小さな概念の鼻をクローズアップして前景にしている。俳句にもある。五七五にこだわらない奔放な種田山頭火の句、「藪から鍋へたけのこいっぽん」は藪を後景として、鍋と筍に焦点を当てる。「秋の空をいただいて柿が実る」と「柿が実る、秋の空をいただいて」は同じことを言っているようでも、前景と後景の扱いが違う。文章にも構図がある。

クローズドな街歩き

午前11:30~午後2:30Open、午後2:30~午後5:30Closed、午後5:30~午後10:00がOpen、そして午後10:00~翌朝午前11:30Closed。これを平均的な食事処は営業/非営業時間帯としている。

居酒屋や焼肉店のほとんどはだいたい午後5:30~深夜がOpen、深夜~午後5:30Closed。バーになるとおおむね午後8:00~深夜2:00Open、他の時間帯すべてがClosed。繁華街や商店街をそぞろ歩きすると、ドアに掛けられた〈Open/Closed〉のサインプレートと時間帯で「街の顔」がある程度わかることがある。

ところで、closedは動詞closeの過去分詞で、形容詞として単独で使われると「閉まっている」という意味になる。発音は[klóuzdクローズド]。なお、closeは動詞以外に「近い」や「似ている」という形容詞でもあり、その時は[klóusクロース]と発音する。

営業中や開店というopenの明快さに比べると、closedのサインは休み、閉店、休憩、営業時間外、準備中のどれを意味しているのかわかりづらい。多義なので一語で何とか伝えようとすることに無理がある。わざわざ行ってみたがclosedのサインが掛かっていたのであきらめて帰る客もいる。実は「只今準備中、まもなく営業開始」のつもりだったのに。


いつぞやの土曜日。早めのランチを終えてから、賑やかな商店街から枝分かれする飲食街に入り込み、どのくらい街が変わり店が変わったのかチェックしながら歩いてみた。。狭い商店街ではあるが、外部に「開かれているオープン」。ところが、開いている店と閉まっている店は半々だった。

土曜日だから終日休みの店が多いのだろうか。それとも、夕方から営業を始めるのだろうか。サインプレートの情報だけではわからない。大文字だけのCLOSEDには容赦のない「閉まっている感」が強い。同じ大文字だけのサインでも鉢植えのグリーンがあれば少しは救われる。救われてどうにかなるものでもないが……。ドアに斜めに掛けられたサインはメッセージ性があって謎っぽい。

営業中の店と閉まっている店。前者よりも無言の後者のほうに視線が向く。そうしてClosedづたいに商店街を通り抜けた時、このあたりは一見向きではなく、店の営業日や営業時間を知る常連が通う飲食街だと悟ったのである。

抜き書き録〈2023年9月〉

まだまだ残暑が厳しい。夏場の読書は苦行である。部屋を涼しくしても、この時期はすでに6月頃からの高温多湿の積算に心身が嫌気をさしている。仕事は他人様との約束なので何とかこなせるが、読書は自分ごとなので、夏場は読書量がかなり減る。中座したり未読したりしている本を本棚から引っ張り出しはするが、今月もあまり読んでいない。

📖 『人生の実りの言葉』(中野孝次)

題名よりも先に「美しい〈老い〉を生きるための珠玉の名句・名文40選」という帯文に釣られて、古本屋で手にした一冊。

閑吟集かんぎんしゅう』の「しゃっとした・・・・・・こそ人はよけけれ」という歌謡が新鮮に響く。関西でよく使われる、スマートさを意味する「しゅっとした」とは異なる。

この句は女の目から見て好ましい男の姿を言ったもので、いかにも頼もしげできりりとした態度ふるまいの中に、ねちっこくないさっぱりした愛情表現をする人のことを言ったもの。(……)中世の女の美意識を単純な言葉でみごとに表現してみせた。

どうやら能力があっても、さわやかさや粋に欠けていては日本男子の理想像にはなれないらしい。とは言え、男の理想像になろうとして生きるつもりがないのなら、好ましいと思われなくても別に困ることはない。

📖 『はずれ者が進化をつくる 生き物をめぐる個性の秘密(稲垣栄洋)

個性、ふつう、区別、多様性、らしさ、勝つ、強さ、大切なもの、生きる……などの生物界のキーワードを見直して新しく意味づけしているのが興味深い。「境界を引いて区別する」の項から引用。

皆さんはクジラを知っていますか?
イルカは知っていますか?
クジラとイルカは同じ海にすむ哺乳類の仲間です。
それでは、クジラとイルカはどこが違うのでしょうか。

「クジラは大きくて、イルカは小さい」
そんな単純なものではありません……と言いたいところですが、じつはそれが正解です。

専門的な分類学によると、3メートルより小さいのをイルカ、それよりも大きなのをクジラと呼んでいるらしい。とても単純なので驚く。この伝で言うと、3メートル1センチがクジラで、2メートル99センチがイルカということになる。その差はわずか2センチ。人間は「区別したいという、ただその理由で分類している」ようなのだ。

📖 『辞書から消えたことわざ』(時田昌瑞)

辞書からまだ消えていないことわざなら結構いろいろと知っているが、すでに消えて久しいものをよく知っているはずがない。本書で知っているのはわずか3つだけだった。消えたことわざの中にあって、記憶にかろうじて残り、ぎりぎり生き長らえている希少種である。

「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」

わからないことはその道のプロに聞いて教わるのがいいという意味。このことわざを知ったのは先輩が口癖だったからだ。何十回も聞いた。あの人、お前より頭のいいオレに聞け、オレに学べと言っていたような気がする。

「三つ叱って五つ褒め七つ教えて子は育つ」

文字通りのわかりやすいことわざだが、こういう道徳観のことわざは消える運命にある。これも文字で見たのではなく、耳から何度か入ってきたと思う。七五調なので覚えやすい。日本のことわざは抽象的な語句を避けて比喩や具体的な表現を使うので数詞の出番が多いと、著者は言う。

「雨の降る日は天気が悪い」

辞書からは消えたかもしれないが、おなじみのフレーズなので稀に今も使う人がいる。

「晴れの日は天気がいい」と言ったらどうなるだろう。たぶん、当たり前なことを言うな、とでも言われるのがせいぜいだろう。(……)類語は特に多くないが、比較的よく知られるのが「犬が西向きゃ尾は東」。その他、「鶏は裸足はだし」「北に近けりゃ南に遠い」「親父は俺より年が上」(……)

当たり前のこと言って、小馬鹿にされる時と、おもしろおかしく感心してもらえる時がある。ウケるためには、当たり前の中に新しい発見の仕掛けがいるのだろう。

食事の前、後、間のこと

いつ、どのタイミングで薬を飲むかに神経質な人たちがいる。ぼくはと言えば、あまり薬のご厄介にはならないが、予防的に処方してもらうことがある。処方されたのが漢方薬の場合、昼食前の服用をよく忘れる。食前に比べれば食後は飲み忘れはあまりしない。とにかく食べた後に飲めばいいのだから。食べ終えたが、その後にデザートのつもりなら、デザートの後に飲めばいい。

かかりつけ医に聞いたことがある。食後とは「食べてから230以内」のこと。「薬は正しく服用」などと言うが、「230分以内」という言い方がかなりアバウトではないか。20分と30分では10分の誤差がある。いちいち気にしたくなければ、食べ終えたらすぐに飲むのがいい。実際、食事処では薬オタクっぽい人ほど箸を置いて即服用しているようだ。

ほとんどの漢方薬は食前の服用が推奨されている。漢方薬をよく服用していた父は忘れずに飲み、几帳面に15分ほどしてから食事を始めたものだ。食後の目安を聞いたさっきの医師に食前のことも聞いたら、これまた食事の230分前という返事。食事の1時間前でもいいとのことだった。

要するに、食後とは食べてから(できれば)半時間以内、遅くとも1時間後までに服用すること、また食前とは(できれば)食べる半時間前、場合によっては1時間前までに服用することのようである(諸説あるかもしれないが、気にしていてはキリがない)。


ところで、食後とは何時間経っていても食後だから、飲み忘れたのに気づいたのが仮に2時間後でも食後には違いない。問題は、先に飲まねばならない食前服用を忘れて、食べた後に思い出した時である。これも医師に聞いたら、「1回パスするよりも、思い出した時点で飲めばいい」ということだった。思い出して1時間後に食前の薬を飲めば、食後の薬と同じことになるが、それも可なのである。

食間は「食事と食事の間」だが、朝食と昼食(または昼食と夕食)のど真ん中という意味ではない。もしど真ん中なら、午後7時の夕食と翌日午前7時の朝食のど真ん中は午前1時ということになる。目覚ましで夜中に起きて飲まねばならなくなる。正しくは、食後2時間以上経っていれば食間扱いである。

食間を「食事中」と勘違いする話はギャグだと思っていたが、実際にいるらしい。食前、食後、食間についてきちんと説明してもらっている患者がそれほどいないのかもしれない。知人は10数種類の薬を服用していたが、食前と食後と食間の薬が重なり、すでに飲んだかまだ飲んでないかわからなくなり、ついに毎日記録する破目に陥った。一日中薬を飲み続けて薬漬け状態になっていた。努力空しく、残念なことに数年前に亡くなった。

夏のレビュー

埼玉で結婚式があって招かれたのが10年前の7月中旬。記録的な暑さに頭が朦朧とし会話もままならないほど消耗した。披露宴が終わって式場から礼服のまま乗ったタクシーが駅に着く。ドアが開いて降り立った時のあの灼熱と呼吸困難の苦痛が今もよみがえる。

京都伏見の4年前の8月。研修先から駅まで徒歩での帰路。この日もスーツ姿での日帰り出張。上着を着ようが脱ごうがほとんど差がない。容赦のない陽射し、38℃前後の猛烈で残酷な10分間だった。「駅まで車で送りましょうか?」という申し出に甘えておけばよかったと後悔した。

2023912日の今日も32℃超えでまだ夏の真っ只中。ギラギラ太陽の炎天下が7月からずっと続いている。体感的には埼玉や京都のあの暑さには及んでいないかもしれないが、ぼくはあの頃よりも加齢しているのである。50日も真夏にさらされてくたばっているのである。ここ数年、6月~9月の4ヵ月が夏の季節となり、秋の担当は10月と11月だけになった。

 

ローマ字表記すれば“a-tsu”nを付ければ“na-tsu”になる。「なつ」と「あつ」は似ていて、同源説があることにも頷ける。天気や天候の話などは社交辞令の最たるものだと思っているが、こと今夏に限っては常套句の「暑いですね」以外の選択肢が思い浮かばない。

一雨が欲しいと思っていたら強いにわか雨があった。あっという間に止んだ。気象予報士は複雑な気分だろう。雨が欲しいけれど、おぞましいほど降る地域があるのだ。週に一、二度バランスよく降れば言うことないが、ぼくの生活域では雨は少な過ぎる。

「今日も青い空が広がりそうです」という天気予報は、暑さを棚上げして爽やかな天気を強調するかのような言い回し。違和感を覚える。晴天であっても、今夏の空模様の表現を喜ばしく「晴れ」と言ってはいけないのではないか。高温多湿の熱中症を心配しながら、同時に豪雨も恐れるという困った夏が、まだしばらく居座るらしい。

創作小劇場『中華料理、一喜一憂』

〈プロローグ:私と中華料理〉

私は幼少の頃から中華そばや餃子になじみ、酢豚の定食を好んで食べた。学生時代には、ライスと相性のよい濃い味のレバニラ炒めや肉団子をよく注文した。私の食生活は中華料理とともにあった。私は中国人ではない。だが、中華料理に目がなく、一日三食すべてが中華でも大歓迎する口なのである。

〈Ⅰ 私流の格付け〉

私が今住む街は中華街ではない。だが、中華料理店が競い合う激戦区だ。正確に数えたことはないが、歩いて五分圏内に十店は下らないはず。圏外にも出てあちこちの店を食べ歩きし、料理別に味比べをしてきた。炒飯はA飯店がおいしく、五目そばはB園が抜きんでており……麻婆豆腐はC家自慢の売りで、D閣はどれも普通だが回鍋肉だけはとてもよい……値段高めだが八宝菜ならE軒で決まり青椒肉絲チンジャオロースはF門の味付けが一番……という具合に格付けができている。

〈Ⅱ 一喜一憂〉

そもそも嗜好というものは、気に入れば入るほど高じてくるもの。逆に、好みの料理が期待外れだったりすると後々まで口惜しさが尾を引く。料理そのものだけでなく、料理を提供する店員や店の雰囲気や皿一枚や箸一膳にも良し悪しがつきまとう。「一喜一憂」は中華料理店の専売ではないが、中華料理店でよく経験するのである。

〈Ⅲ 具材の多少〉

店ごとの料理の格付けがかなりできてきたので、がっかりする味に出合うことはめったにない。しかし、味付けに不満はなくても、具材の多少とバランスに一喜一憂することがある。ある日のとある店で指名した私の昼ご飯は「豚肉ときくらげの卵炒め」であった。

以前、別の店で注文した天津麺の、麺とスープをすべて覆い尽くして器から溢れんばかりの卵にも驚いたが、この卵炒めはそれといい勝負ができるほど圧倒的な量の卵を使っていた。卵の下には甘みのある脂身の豚肉が埋もれていた。町中華、侮れない。

これだけですでに十分な「一喜」なのだろうが、食すのは他でもないこの私だ。遺憾ながら、四字熟語の残り二文字を受け持つ「一憂」について触れなければならない。復習しておこう。私が注文した料理は「豚肉ときくらげ・・・・の卵炒め」である。漢字で「木耳」と書かれていたら読めない、あの黒いキノコ。それが他の具と比べるとかなり控えめなのだ。きくらげ愛食家としてはっきり言っておくが、豚肉と卵は半分の量にしてもらってもよかったのである。きくらげを重ね積みして料理が黒く見えるほど溢れさせる心遣いがほしかった。

〈Ⅳ テーブル〉

新型コロナ以降、中華料理店では一人客なのに四人席テーブルに案内されることがあった。こんな空間的贅沢にすっかり慣れた三年間。ところが、今年の連休明け頃から知らぬ客との相席を強いられるようになった。テーブルのこちら側に私一人、斜め向かいに一人の客ならまだいい。先日は私一人に対して三人組が配席された。憂いを通り越して拷問状態になった。テーブルは三人組の会話に支配され、注文した油淋鶏ユーリンチーの味をほとんど覚えていない。

テーブルの上に透明のマットが敷かれている店がある。そこに自前の各種リーフレットを挟んである。「食べ放題3,980円の夜の宴会メニュー」、季節限定の「柚子焼酎」、昼席では注文できない「前菜三種盛り」、イチオシなのか自信作なのか、唐突に「麻婆茄子」。カラフルなリーフレットが何枚も敷き詰められたテーブル。そこに注文した八宝菜の一皿が置かれて、料理はまったくえなかったのである。

〈エピローグ:デザート〉

中華定食4種と週替わりサービス2種を用意している店。すべての食事に杏仁豆腐が付いてくる。杏仁豆腐と言うよりも、缶詰から取り出した寒天のような代物である。半数以上の客が手を付けない。ある日、どうしたことか、見た目本物の杏仁豆腐に替わっていた。うまい! 一流ホテル級の味に私は満悦至極だった。その半月後にも入店した。どうしたことか、杏仁豆腐は元の寒天のような代物に戻っていた。別に驚きも落胆もしなかった。中華料理店にはよくあることだし、何よりもデザートはサービスのつもりなので、私流の格付け対象にしないことにしている。

語句の断章(44)「つままれる」

半世紀以上前の話。大阪郊外の国鉄ローカル駅近くに住んでいた伯母おばは踏切を渡るたびに電車の音が聞こえたと言う。それが当たり前ではないかと思って聞き返したら、「それがね、電車が走らない時でも聞こえるのよ」。人を化かすために狸が電車の音を真似ていると伯母は信じていた。

狸の場合は「化かされる」がしっくりくる。「狐に化かされる」もよく見聞きする。実際ぼくも、若かりし頃は狸と狐のどちらにも「かされる」と言うのだと思っていた。ある時、狐には「つままれる」が慣用だと知った。つままれる? 首をひねっても即座に分からず、化かされたような気分になった。

調べてみた。動詞「まむ」は、つまま(ない)、つも(う)、つまみ(ます)、つまむ、つまむ(とき)、つまめ(ば)と活用し、云々……未然形の「つまむ」に受身の助動詞「れる」がくっついて「ままれる」になる、云々……という文法の知識を仕入れた。辞書も調べた。それでもまだ、「狐につままれる」の意味とニュアンスがすっと入ってこなかった。

狸は人を化かしたり騙したりする。狐もそうなのだが、狐の場合は化かされることを「つままれる」と言う。そして、「予期せぬことが起きて、わけが分からなくなってぼんやりとする」という意味をいっそう強く感じさせる。狐は狸よりもしたたかなようなのだ。

狸に化かされるのも狐につままれるのも比喩表現である。ぼくの伯母は実際に狸に化かされたと信じたが、普通は現実にあるはずもないことだと知っていて、「狸に化かされたような」とか「狐につままれたような」とたとえて、ぼんやりとした気分を現わそうとするのである。

なぜ狐には「つままれる」というちょっと手の込んだ言い回しをするのか。調べたが分からなかった。もしかして「狐き」と関係している? 狐には霊があって、それが人にとり憑いて常軌を逸するような言行をさせるという、あの狐憑き。お祓いする祈祷師のばあさんが幼少の頃に同じ町内に住んでいた。さっきあのばあさんを思い浮かべたら、狐には「つままれる」以外の表現はふさわしくないと確信した次第である。