懐かしさと追想

夜も遅い帰り道、年恰好80歳前後の老人がふらふら状態で立っていた。酔っ払っていたのか気分が悪くなったのかわからないが、まもなく座り込んだ。急いで駆け付けた。「大丈夫、ありがとう」と言うが、どう見ても大丈夫ではない。家を尋ねたら「すぐそこ」と指を差す。そこは天ぷら料理の店。身体を支えて店先まで送った。

二男の体験談で、23年前に聞いた話である。二男と拙宅は近い。そしてその現場も徒歩圏内だ。だから店が老舗の天ぷら割烹「H」だとすぐにわかった。会社を創業してまもなくの頃、知り合いに連れて行ってもらい、その後何度か夜席にお邪魔したことがある。

その頃も今もオフィスは同じ場所。当時は大阪の郊外に住んでおり、オフィスからでも徒歩15分ほどの場所でも土地勘はまだあまりなかった。職住近接を考えて引っ越してきたのが17年前。自宅から「H」は67分という近さだが、店とは疎遠になって久しいし、二男から話を聞くまで思い出すこともなかった。

いや、この話を聞いた直後も「あ、以前行ったあの店か」という程度の反応で、久しぶりに行ってみようとは思わなかった。仕事がらみの接待でよく利用した店はほとんど廃業しているし、ひいきの飲食処のリストはそっくり更新している。

他にも理由がある。ここ何年か、天ぷらを食べに行こうとあまり思わなくなったこと。天ぷら割烹の夜席は一品ずつ揚げて出される。接待したりされたりの機会ならまだしも、プライベートでは少々面倒くさい。同じ揚げ物なら串カツのほうが気取らずに済む。

ところが、一昨日の土曜日の昼、久々に天丼か天ぷら定食を食べたくなったのである。日中は暑いので、なるべく近場という条件を付けたら必然「H」に辿り着いた。店内はスマートに改装されていた。そしてカウンター向こうにはすべての注文を一人で揚げる主人がいた。かつて通った時のあの主人であり、二男の話に登場したあの人物である。懐かしさを覚え断片的な追想が巡り始めた。接待相手のいない昼の天丼は一味違った。

マイナス転じてプラスに

「ピンチの後にチャンスあり」と励まされても、危機は突然好機に変わらない。現実は甘くない。ピンチはピンチであってチャンスではない。ピンチはマイナスであり、プラスではない。マイナスは勝手にプラスにならない。一縷の望みがあるとすれば、マイナス状況をプラスとして解釈しようという心の持ち方である。

どう見ても厄介なことだが、視点や方法を変えて対処すればうまく好転するかもしれない。これを「わざわいを転じて福となす」という。こういう類の諺はいろいろある。「苦は楽の種」もその一つ。冷静に考えれば、苦はさらなる苦の種になる可能性が大きい。リンゴの種がリンゴの木になりリンゴの実をつけるように、苦の種は苦の木になり苦の実をつけるはず。「小苦は大苦の種」のほうがおおむね正しい。

アスファルト化された都会では雨が降って地が固まることはなく、大雨は冠水をもたらす。「雨降って地固まる」は今もなお、結婚式の主賓が雨の日の結婚式をポジティブに演出しようとする常套句。色褪せた諺の唯一の出番は結婚式である。「雨降って地がゆるむが、時間が経って地は乾き、やがて地は固まる」という論理だが、省略して「雨降って地固まる」。

ハレの儀の日の「雨降り」がよくないという前提に立っている。では、今夏のようなカンカン照りでいいのか。そうとも言えない。「日が照って熱こもる」という、プラス転じてマイナスの図はもっと困る。余談になるが、「雨降って空気冷やす」に期待できないから、ついに先週日傘を手に入れた。日傘が灼熱の苦を鎮静するのを期待して。


マイナスを「逆縁」、プラスを「順縁」として表現した仏教哲学者の中村はじめのエピソードには励まされる。

中村は20年の歳月を費やして、3万語を収録した『佛教語大辞典』を200字詰め原稿用紙で4万枚書き上げて出版社に手渡した。ところが、出版社はあいにく引越しの最中で、中村の原稿はゴミと間違えて捨てられてしまったのである。涙を流して謝罪に来た出版社に対して、中村は「怒っても原稿は出てこない」と平然を装って言うしかなかった。そうは言っても、さすがに中村は1ヵ月以上呆然としていたらしい。しかし、妻の「やり直してみたら」の一言に奮起した。そして、この日からさらに8年をかけて完成させた。紛失した原稿に取り掛かってから数えて27年が過ぎていた。中村は言った。

「やり直したお陰で収録語は3万から45千に増え、ずっといいものができました。逆縁転じて順縁となりました。人生において遅いとか早いということはございません。思いついた時、気づいた時、その時が常にスタートですよ」。

ストレスが溜まってもストレスと闘ってはいけない。困難な仕事を課されても弱音を吐いてはいけないのだ。もちろん、祈りは通じないし、偶然や他力にも期待できないが、実は逆縁こそが、逆縁そのものを順縁に変える力を貸してくれるのである。

意見の相違と議論の余地

感熱紙に印刷された50編ほどの原稿が出てきた。文字の3分の1が消えかけている。奥付用の原稿もあって、19943月の日付がある(小冊子を発行するつもりだったと思う)。書いたのはずいぶん前だが、文責は自分だから類推しながらある程度は読める。

先日、たまたま会話にのぼったテーマと同じ一編があったので、ここに転記することにした。紙も内容もほとんどが色褪せているが、この話は30年前も今もあまり変わっていない。


後に引けないほどののっぴきならない意見を述べなければならない場面がある。意見とは責任を負った主張のこと。意見が通らなければ引き下がることになり、他の意見に与することになる。他方、意見が通っても万事オーケーではなく、通ったら最後まで責任を果たさなければならない。意見には覚悟がいるのだ。責任回避が当たり前の昨今、覚悟のあるのっぴきならない意見を耳にすることが少なくなった。

マイケル・スプロールというアメリカの言語教育学者が著した“ARGUMENT  Language and Its Influenceという本がある。訳せば『議論 言語とその影響』という書名になるが、残念ながら邦訳は出ていない。議論にまつわる5つの通念が紹介されている。

 エリートのもの
 政治のためのもの
 非友好的なもの
 基本的に理性的なもの
 主観(自己本位)に基づくもの

著者はこれらの議論の通念が間違っていると言う。どうやら議論がしっくりこないのはわが国特有の風潮ではないらしい。好んで議論をしているように見える欧米でも、議論は理屈っぽいもので、それゆえにケンカになるリスクにいつも脅かされているようなのだ。

さて、誰かがあなたにポツンと一言、「花」と言ったとする。議論の余地はあるだろうか。非言語的な伝達手段もなく、たった一言の発話だけで議論は始まらない。では、どんな場合に議論は生じるのか。

「この花は美しい」と言ってみよう。ポツンと「花」とだけ言うのではなく、「この」と「美しい」をくっつけてみた。たったこれだけのことで議論の芽が吹き始める。ある語が他の名詞や修飾語と合体するだけで意見の相違が生じることがある。

議論そのものはエリートや政治家の専売ではなく、また非友好的性質のものでもない。理性ばかりでなく、当たり前のように感情も入る。主観と主観がぶつかる時に議論が生じることは事実だが、本来の議論は主観の衝突をやわらげて客観的合意を目指すもの。議論はよく決裂する。特に、上記の「この花は美しい」のような形容詞を含む命題は主観対立しやすい。

議論は言語の本質に根ざしている。つまり、ことばで何かを表現する際に議論はつきまとうのである。それを避けて通ろうとしても、いずれはそのツケが回ってくる。今が議論のタイミングだと判断したら、たとえ勇み足になろうとも、躊躇せずに踏み込むべきである。遅疑逡巡した意見や先送りした議論はこじれることが多い。

夏は豚肉料理

中華の庶民的なスタミナ料理と言えば、豚肉のレバニラ炒め(ぼくは「ニラレバ」と言う)。レバニラは、酢豚定食や回鍋肉定食と並ぶ人気の豚肉料理だ。豚肉や豚ホルモンに夏野菜やニンニクの芽などを加えて炒めた定食は元気もりもりになりそうな気がする。

鰻もいいが懐にやさしくない。牛肉の焼肉やすき焼きもいいが連日というわけにはいかない。夏のスタミナ源はやっぱり豚肉がお手頃だ。レシピが豊富なので週に23度食べても飽きない。

7月末からランチで食べ歩きした豚肉料理8品を紹介する。なお、エピソードがあれば書くが、いちいち「うまい」というコメントは入れない。


レバニラ炒め

若い頃、夏場に街中華に入ったらレバニラ炒めか酢豚かだった(店が珉珉ならジンギスカン定食)。写真は最近たまに行く中華の店の一品だが、ニラが少なく見えるほどレバーがこれでもかというほど入っている。注文時に「ライス少なめ」と告げる。

焼豚とレアチャーシューの鶏・魚貝ラーメン

焼いたチャーシューとレアのチャーシューを使うラーメン店。チャーシューの切れ端も無料でトッピングしてくれる。豚肉は牛肉よりもスープとの相性がいい。

トンテキ

一度きりだが、厚切りトンテキと薄切りトンテキをそれぞれ200グラム注文したことがある。さすがにきつかったので、今は厚切りと薄切り合わせて300グラム、しかも年に1回で十分。焼き上がった肉を濃いめのソース鍋にどぼんと漬ける。揚げて煮込んだニンニクは好きなだけ盛ってくれる。

カツ丼

定番のカツ丼。所望すればカツとじとライスを別盛りにしてくれる。麺類一式の店の人気のご飯ものはカツ丼と親子丼。これにミニうどんかミニそばが付く。

生ハム

休日はたまに昼飲みする。たいてい白のスパークリング、それに生ハムを合わせる。ゆっくり噛みしめるように食べ、ハムのあとはパスタかピザをシェアしていただく。

月見焼豚丼

焼きとんの店の〆ご飯。焼豚の下に月見が隠れている。生卵を見るとテンションを上げてかき混ぜるお方がいるが、かき混ぜ過ぎると味がわからなくなる。箸で黄身を崩したら、黄身の流れにまかせてご飯と肉をいっしょに食べるのがいい。

満州風酢豚

普段食べる酢豚はライスと合うが、この酢豚はビールでいただく。さらっとさっぱりした甘みのあるたれが薄切りの肉にまつわりつく。街中華では出ないが、中国の延辺や東北の料理店ではメニューに出ている。

イベリコ豚のロースト

豚肉のローストは脂と赤身のバランスと焼き加減で味にかなりの変化が出る。イベリコ豚という語感と厚切りした断面の視覚が食味に大いに影響する。

抜き書き録〈2023年8月〉

この半月で古本を十数冊買った。まだほとんど目を通していない。それどころか、ここ数年で買い求めた本の半数すら読み通していない。将来読む気のある未読本はオフィスでも自宅でも机に向かう背中側の棚に無分類のまま積んである。仕事の手が止まったので、何冊か引っ張り出してことば遊びのページを拾い読みしてみた。

📖  『誹風柳多留』は「はいふうやなぎだる」と読む。江戸時代中期から幕末までほぼ毎年刊行されていた川柳の句集。全部で167編が刊行されたという。川柳なので季語はないが、この時期にありそうなユーモラスなものを二句。

本降りになって出ていく雨宿り

今だ! と踏ん切りをつけて雨中に飛び込めば、さっきまでの雨のほうがずっとましだったということがある。夕立やゲリラ豪雨時の雨宿り。小降りになるタイミングを見極めるのは容易ではない。

かみなりをまねて腹がけやっとさせ

腹掛けは昔の職人の仕事着の一つだが、自宅で子どもにさせる腹掛けは夏場の寝冷えを防ぐ肌着だった。暑いから子どもは嫌がる。「腹掛けしないと雷様にへそを取られるぞ」と親父は脅したのである。冬よりも夏によく腹巻をさせられた覚えがある。

📖 『街頭の断想』というエッセイ集に河合隼雄の「ふたつよいことさてないものよ」と題した一文がある。

ふたつよいことは、さて、ないものです。ひとつよいことがあると、ひとつわるいことがある。どんなによいことでも、その裏には、あんがい、わるいことが含まれています。
そのかわりに、ふたつわるいことも、あまりないものです。どんなにわるいことでも、よくよく見ると、それは何かよいことをあわせてもっていることが、わかってきます。

この話のもとは次の七七七五調の都々逸である。

〽 二つ良いこと さて無いものよ 月が漏るなら 雨も漏る

月が漏るとは、夜に月の光が板葺き屋根の隙間から射してくること。貧乏長屋のイメージだが、光が入ってくるならその隙間から雨も漏るだろう。月の光は良いこと、雨漏りは良くないこと。良いことはめったに二つない。河合は悪いことも二つないと言うが、悪いことは平気で二つ三つと重なるものである。

📖 『不思議な日本語 段駄羅』(木村功)。段駄羅は俳句や川柳と同じ五七五。上の五音をA、中の七音をB、下の五音をCとすれば、Bの七音は同じだが二つの異なる意味になって、「A-B1」と「B2-C」とつながるように駄洒落の掛詞を遊ぶ。一句引用する。

古都の旅(A)   

大和路やまとじ線か(B1)
山と自然が(B2)

そこかしこ(C) 

奈良への旅人が「JR大和路線」を利用し、窓外に「山と自然」をそこかしこに眺める様子である。ABCの記号を抜いてもう一作。

寝苦しい  

不快な蚊なり

深い仲なり

花と蝶

語句の断章(43)情報

すでに十分にわかっているつもり。だから調べようとしない。〈情報〉とはそういう類の術語。調べなくても怠慢とは思わないが、ひとまず『新明解国語辞典』を引いてみた。

じょうほう【情報】 ある事柄に関して知識を得たり判断のよりどころとしたりするために不可欠な、何らかの手段で伝達(入手)された種々の事項(の内容)。〔個別の事項が生のまま未整理の段階にとどまっているというニュアンスで用いられることもあり、知識に比べて不確実性を包含した用語〕

並大抵ではない苦心の跡が窺えるので、短時間で一気に書いたのではないだろう。三日三晩、いやそれ以上、ああでもないこうでもないと費やしたかもしれない。語釈だけで済ませておけばよかったのに、解説という深みに入って逆に荷が重くなったのではないか。

情報は〈知識〉と並べて定義するのがわかりやすい。今も「知識産業」という表現が時々使われているが、陳腐感は否めない。1960年代にすでに知識に代わって情報が優勢になっていたはず。知識は、“know”(知る)から派生したknowledgeナレッジの訳語。あること・・・・を知ってそれを保存するのが知識。知識は「溜める/ストック」を前提とする。「知識を身につける」とはそういうことだった。

一方、情報はinformationインフォメーションで、これは“inform”(伝える)から派生している。主として「inform+(人)+of/about/on+(こと)」という文型で使われる動詞で、誰かが別の誰かにあること・・・・を伝えるという行動を意味する。知識の「溜める/ストック」に対して、情報は人どうしの間での「伝える/フロー」が特徴。

知識も情報もほとんど同じこと・・なのだが、知識が「保存性」を特徴とし、情報が「流動性」を特徴とするのである。溜めて価値を生むのが知識、流してこそ価値を生むのが情報と言い換えてもいい。

「知らせ、通知、便り」という意味のドイツ語、Nachrichtナーハリヒトに森鴎外が〈情報〉ということばを当てた。情報は鴎外の造語である。「なさけしらせる」とはやや古風に響くが、誰かが別の誰かに伝えるという点はしっかりと押さえられている。

自分が知りえたことを他人と分かち合い、社会で他人とつながろうとするのが情報の善用である。しかし、情報は悪用も可能で、自分が知りえたことは秘匿し、他人が知っていることを盗み取れば競争優位に立つこともできる。ともあれ、情報化社会は今に始まったのではなく、有史以来ずっと人間は情報行動に生きてきたと言うべきだろう。

察してもらうか、語り尽くすか

同じテーマで『ハイコンテクストな標識』と題して5年前に書いたことがあり、矢印(⇨)のサインと〈自転車を除く〉という文字の交通標識だけで意味が伝わるのかを検証した。伝わると思うからそれで済ましているのであり、これでは伝わらないと思えばことばで説明するはず。長ったらしい説明をハイコンテクストなビジュアルで置き換えるのが標識やピクトグラムやアイコンの役割である。

さて、「察してもらう」と「語り尽くす」は二項対立の関係にある。暗黙の了解に期待するか、とことん説明するか……英語では前者を「ハイコンテクスト」、後者を「ローコンテクスト」という。コンテクストとは文脈のこと。

同じ文化的背景を持ち、必ずしも言語に頼らなくてもある程度通じ合えるのがハイコンテクスト。お互いに文脈や行間を読んで理解することを期待し合う。他方、前提的な知識や非言語的要素に依存せずに、あくまでも言語で理解し合おうとするのがローコンテクスト。

ハイコンテクスト文化では「みなまで言う」のは野暮である。よく知る者どうしが「あれ」や「それ」で雑談し、わかっているのかわかっていないのかなどはあまり気にとめない。ローコンテクスト文化ではそんなコミュニケーションをもどかしく思うので、意味を明快にしながらとことん語り説明する。

以前は、日本がハイコンテクスト文化の国で欧米がローコンテクスト文化の国々として対比されたが、必ずしもそうとはかぎらない。二つ以上の文化が交わるTPOではハイコンテクスト交流には限界があるため、たとえば英語を共通言語として語り合うのである。しかし、どこの国であっても、特定のコミュニティの人どうしならある程度察し合うものだ。

ユダヤ人は言語と論理で語る典型的な民族とされているが、ユダヤ人どうしのコミュニティでは、日本人どうしと同じく、「省言語」の場面もよく出てくる。宗教と生活習慣と文化・しきたりを共有していればツーカーが当たり前になる。「察する」をテーマにしたユダヤジョークを一つ披露しよう。

わが子の出産に大喜びの夫が妻の両親に電報を打った。単語4つの短いメッセージ。電報を受け取った義父が、後日夫を詰問した。

「なんだ、あの電報は。あれだけの文字数はいらんだろう。わざわざレベッカ? レベッカ以外の他に誰がいるんだ? 他人様の女房が子どもを産んで、お前さんが義父のオレに電報を打つはずがない。しかもメデタクとは何だ⁉ めでたいのに決まってるじゃないか! シュッサン? 出産以外の生み方があるとでも言うのか? コウノトリが連れてきたのか? きわめつけはダンジだ。女の子だったらそんなに大喜びするはずがないぞ」

しょんぼりした娘婿に義父は最後にこう言った。

「お前が白紙の電報を打ちさえすれば、レベッカに男の子が生まれたくらいオレにはわかるんだ!」

ハイコンテクストな単語4つの電報を凌ぐ究極のメッセージは、白紙の電報なのだった。ハイコンテクスト文化にどっぷりと浸かっていると、かぎりなく沈黙に近づいていくことがわかる。