天神祭とエトセトラ

🎇 大川の浴衣姿にいま気づくそうか今宵は天神祭

2023725日火曜日は天神祭。主な舞台は事務所から300メートルの大川。近すぎるせいか、積極的に見物に行ったことがない。ここに拠点を置いて35年。船渡御ふなとぎょは天満橋と天神橋からそれぞれ一度見た。打ち上げ場所に近い橋の上から花火を見たのも一度。人混みの中、スペインバル前の出店で生ビールを飲んだ。それも一度だけ。

天神祭の船渡御はまず川の流れに逆行してさかのぼる。しかるべきポイントで反転し、復路は流れのままに下る。船渡御と奉納花火を見て屋台を巡っていると半日かかる。

🎇 この夏、自宅マンションも事務所のあるオフィスビルも大改修の真っただ中。足場が組まれ、遮光性の強い足場シートに覆われて室内はどんよりと暗い。オフィスの作業は来月中旬に終わるが、マンションのほうは10月まで続く。

裏口の足場をくぐりマンションをちオフィスビルの足場をくぐって入口に着く日々

🎇 二筋向こうに、味も値段も普通の大衆的な食事処がある。がっつり食べたがる男どもに人気。あまりにも暑いので事務所近くのそこで妥協した。数年ぶりの入店。ご飯ものには蕎麦かうどんが付く。ご飯少なめのカツ丼と冷やしぶっかけ蕎麦を食べ始めた数分後、ホールの女性が隣のテーブルの注文を厨房に通す。

「カツカレーのカツ抜き!」

まさかのカツ抜きに耳を疑う。この店のメニューにカレーライスはなく、カツカレーしかないのを知る。「カツ抜きは百円引いてあげて」と厨房。「蕎麦は大盛りご希望」とホール。「じゃあ、百円引きと百円足しでプラマイゼロ」と厨房。わが箸をしばし止めて状況理解につとめた。

カツカレー  カツを抜いても  まだカレー

しかし……

カツ丼の  カツを抜いたら  ただのめし

🎇 机の引き出しを整理した。左側二つ目の引き出しに、使っていないマウス、年賀はがきで当選した十数年分の年賀切手、封筒と便箋いろいろ、今となっては破棄してもいい名刺、数種類の印肉ケース、そして消しゴム篆刻15個ほど。こんなのを彫った? と一瞬戸惑った草書体っぽいのが一つ。まじまじと見てようやく思い出す。

これは「知情意」と刻した作品。カントが論じた人間の精神の働き? そんなご立派な動機で彫ってはいない。「ちじょうい」という語調がよく、三要素のバランスが取れたらいいなあと素朴に思っていた次第。

語句の断章(42)ノート

「ノート」は多義語だが、ぼくたちはほぼ「メモする、書きとめる」という意味で使っている。わが国では「キャンパスノート」や懐かしい響きのする「帳面」もノートと呼ぶ。英語でnoteノゥトはメモのこと。キャンパスノートや帳面ならnotebookノゥトブックと言わねばならない。

いま英語のノートはメモのことと書いたが、ノートは文脈によって意味を変える。動詞のnoteには「気づく、注目する」「言及する」「書きとめる」などの意味がある。名詞の場合は「筆記、メモ、覚書、注釈、短い手紙」「紙幣、手形」「語調、調子」「音、音符」「重要性、著名、注目」などとさらに多義を極める。

システム手帳体裁のノートブック(本ブログと同じく“Okano Note”と名付けている)

いろんな体裁のメモ専用の手帳やノートブックを使ってきた。ここ十数年は、買ってあまり使っていなかったシステム手帳を復活させてアイデアや文章を記している。メモをまとまって書いたり編んだりしたものが「手記」や「手稿」。『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』は元のイタリア語では″Scritti di Leonard  da Vinci。英語になると″The Notebooks of Leonardo da VInciで、やっぱりノートブックになる。

メモを取るにしても残すにしても紙片に記すことが多い。紙片はまとめにくいし、まとめたとしても散逸しかねない。一冊のノートブックを使うほうがメモを生かすことができる。

一般的にメモを記す場合は「ノートを取る」という。これは誰かが言ったことを記録しているイメージだ。自ら気づいたことや考えたことを習慣的に記す場合は「ノートをつける」や「ノートに書く」。ノートに書くと言えば「愛用のノートブック」という感じがする。

ノート術についてよく聞かれることがあるが、好きなように書けばいいと思う。大切なことは、なぜ書きとめるかという点。忘れないためではない。後日読み返すことを前提にして書いているのだ。ノートは何度も読み返しては新たな気づきを付け加えて更新することに意味がある。もう一点は、知を一元化して統合しやすくしておくため。つまり、一冊のノートブックに書くことが重要なのである。

交渉のヒントとピント

問題解決や物事の理解の手がかりがヒント。問題や物事の中心に焦点を絞るのがピント。先人たちが残した交渉の鉄則からヒントは得られるが、自分の当面の問題にピントが合うとは限らない。一般的な格言や諺と同じく、上手に意味を汲むべきで、決して軽はずみに信じてはいけない。

「ディベートや交渉の指導はもうしないのかい?」と知人。「大がかりな場ではするつもりはない。個別に手ほどきするのはやぶさかではないけれど」と返答した。議論の勝ち方や交渉の進め方について30年以上講演や研修をしてきたが、学びたい人のための便宜的な手立てに過ぎない。ディベートや交渉で勝負しようとしている二人を相手に同時に手ほどきはできない。

相対する二者のレベルが上がってくるにつれ、基本原則や定跡としての交渉術は徐々に通用しなくなってくる。読み合いと裏のかき合いをすればするほど、上級者の間では戦術が通用しなくなるのだ。交渉術は中級者向けであり、相対する両者に駆け引きの技量の差がある時に有効だと言える。という前提のもとに、いくつかの「術」を紹介しよう。

「ことば。それは人間が使うもっとも霊験あらたかな薬だ」(ラドヤード・キプリング)

👉 交渉は「ことばのチェス」である。軽はずみにことばを使う者は交渉事でなかなか勝てない。ことばの重みを知り尽くし、ことばの「薬効」に詳しい者が有利に交渉を進めることができる。

「物事を体系的に扱おうとするなら、まずその定義から始めよ」(マルクス・トゥッリウス・キケロ)

👉 定義が曖昧なら弱者もいい勝負に持ち込める。相手より少しでも力上位だと自覚するのなら、まず重要なことばを明確に定義して交渉をリードするべきである。自分が定めた定義で議論したり交渉を進めたりできていれば、すでに形勢は有利になっているはず。

「敵の手の内を熟読すること。われらの敵はわれらの味方である」(エドモンド・バーグ)

👉 「あの人はこういう人で、こんな考えをする」という他人からの情報を当てにしてはいけない。敵に喋らせて一言一句をフィルターにかけてホンネとタテマエをその場で即興的に見極めるのがいい。いま目の前にいる当面の敵こそが最大の情報源なのだから。

考えを理解してもらうには大言壮語してはいけない。短いセンテンスで小さく言い表せ」(ジョン・パターソン)

👉 争点が分かっておらず理解も不十分な人ほど大言壮語する。すなわち、抽象的なことばを振り回す。たとえば「自由で開かれたインド太平洋」という漠然とした概念を繰り返す相手は恐くないのである。これに対して、争点がよく分かっている人は、ここぞという場面で具体的かつ簡潔に話をする。

「あなたの意に反して即断を迫られた時にはノーと答えよ」(チャールズ・ニールソン)

👉 「さあ、イエスかノーか、どっちなんだ?」と迫る問いに即座に答えられない時、「二者択一では答えられない」などと平凡に返してはいけない。とりあえず「ノー」で凌ぐ。ノーと言っておけば後でイエスに変えることができる。イエスに対して相手は受容しやすい。しかし、イエスと言って、後で「やっぱりノーだ」と変更すると弱みを露呈することになる。

「種蒔きと刈り取りを同時におこなうな」(フランシス・ベーコン)

👉 質疑応答や情報提供は交渉の下地づくりの過程である。たとえば「この情報をご存知か?」と尋ね、相手にイエスかノーかの答えを迫る。ノーと答えた相手にその場で「ノーはおかしいじゃないか!? 」と反論するのではなく、黙ってうなずく。このような種をたくさん蒔いておき、次に「これまでの質疑応答を通じて問題が浮き彫りになった」と切り出して、重要な争点の刈り取りに取り掛かる。いてはいけない。

特急車中のメモを読み返す

言いっ放し、聞きっ放しはよくある。文字でなく音声だから、言ったり聞いたりするそばから消える。しばらくすると何を言ったか何を聞いたか忘れている。文字の場合は消えずに記録に残るが、書きっ放しのまま放置しては意味がない。時々読み返してこそのノートである。下記は先週の出張時の特急車内で記した歪んだ文字のメモの書き起こし。


📎 促されるままアプリをスマホにインストールすることがある。気づけばかなりの数になっている。ふと、人生も無数のアプリで出来ているのではないかと思う。「アプリ人生」または「人生アプリ」。

📎 リーダーは孤独か否か? という雑談をした。孤独の時間もあるだろう。しかし、仕事では会議や打ち合わせが入る。プライベートでは、仲間から声が掛かる、自ら仲間を呼んで会う。一緒にメシを食い飲み屋にも行く。知り合いのリーダーはいつもワイワイガヤガヤやっている。孤独を噛みしめる時間はあまりなさそうだ。孤独が似合うリーダーが少なくなった。

📎 まだ一度も使っていないフランスの土産のことを思い出した。パリ郊外のフォンテンブロー宮殿で買い求めたらしい。ナポレオンが愛したグラスとか。たしか“N”のレリーフが入っていた。今年の夏、使ってみようと思う。

📎 とある中華料理店のメニューに、しばらく消えていた一品が戻ってきた。やや辛めのビャンビャン麵がそれ。最初の実食時に好奇心から漢字を覚えてみたが、今はすっかり忘れている。

📎 「うまいものを食べるのではない。食べたものがうまいのである」と食後にいつもつぶやく。食材と料理への感謝のしるし。

📎 「天ぷらは親のカタキに会ったように食べろ」と言ったのは池波正太郎。まあ、どんな料理も出されたら、なるべく早くいただくのがいい。先日、カツオのタタキをそんなふうに食べた。親のカタキ、カツオのタタキ、合わせて親の肩たたき。

📎 副次的なディテールがうまく行っても、大局を誤っていると話にならない。大局がディテールよりもすぐれていると断言するつもりはないが、ディテールに配慮する心遣いが大局にはある。大局観は粋なのだ。

コツコツが発想のコツ

💡 「一瞬のひらめきで企画案が出来上がる」なんてことはありません。好奇心や遊び心に促される気づきをコツコツ積み重ね、地味にあれこれと考える。これが発想の基本。奇跡も稀にありますが、期待しないほうがいいでしょう。

💡 正解は、どこかにあるものではなく、そのつど編み出すもの。しかも、一つとはかぎらず、現実世界ではたいてい複数の正解がありえます。有力視される論理的思考や分析的思考から生まれるアイデアは案外月並みです。決して過信してはいけません。

💡 半世紀以上前に、論理一辺倒の「垂直思考」に代わる、柔軟な「水平思考」を提唱したのがエドワード・デ・ボノ。A⇢B⇢C〉という順序的な定常処理に対して、水平思考とは論理を脱して「飛ぶ」ということ。誰にでもできる思考ではないですが、近づける道はあります。さぞかし「すごい方法」に違いないと思いきや、普通過ぎて驚きます。それはそうでしょう。日常わたしたちは論理思考で明け暮れているわけではないですから。

 広視野でとらわれなく考える。深く考えようとするととらわれる。浅くてもいいから広く見渡すように考える。

 大きな目的を目指すとマクロ的かつ抽象的に考えてしまう。小さくて具体的なゴールほど到達しやすい。

 何もかも手の内に入れて考えるのは所詮無理。何が重要か――あれもこれもと欲張らずに、優先順位を決める。

 「これが正解だ!」と確信した時に落とし穴が生まれる。一つのアイデアに安心せずに、代案やオプションを捻り出す。

💡 発想の質――ひいては企画の質――は膨大なルーチンワークの積み重ね、同じことの繰り返しによって高まります。職人さんの経験・熟練と同じ。日常的な経験値が多いほど気づきも多くなります。毎日同じ道を歩いている人ほど変化をしたためやすいのです。

💡 発想のスキルはいきなり身につきません。また、仕事中に身につくだけではありません。生活のスタイル、癖や習慣、教養や雑学がスキルに反映します。面倒臭がらないこと。細やかに気遣いすること。記録し記憶すること。そして、社会とのアナログ的距離感覚をおろそかにしないことがたいせつです。

(岡野勝志『企画発想術講座(初級)』のイントロより)

夏はやっぱりカレー?

「夏はやっぱりカレー」と言われても、「夏はやっぱりアイスコーヒー」と同じく、特に違和感を覚えない。誰が言い出したか知らないが、暑さとスパイスは相性がいいようだ。では、「カレーと言えばやっぱり〇〇〇」と言い切れるカレーはあるか? 絞り切れないという点では「ない」と言うしかない。

ここ十数年、日本で独自に進化したスパイスカレー。あまり追いかけなかった。それよりも、近場でインド/ネパールカレーを中心に食べ歩いた。何しろ居住区と職場は関西有数のカレー激戦区なので、徒歩圏内でいろいろ賞味できてしまう。インド/ネパールだけでなく、パキスタンやスリランカやシンガポールもある。

ここ数年、ナンよりもライスの頻度が高くなった。よく行くネパールの店ではご飯たっぷりの「ダルバート」。もっとよく行く南インドの店では、土曜日は大盛りのかやくご飯「ビリヤニ」、そして最近の日曜日は「カレーはやっぱりミールス」と決めて店に入る。ダルバートもミールスも、また北インドのタ―リーも、味や盛り方のニュアンスが違うだけで、基本はライスとカレー数種類の定食である。

南インド料理の定食、ミールス
同じ店の別の日のミールス

ひいきにしている店のミールスは、ライスと8種類ほどのカレーの小皿を丸い大きな皿に乗せて出てくる。中央にはパラパラとしたバスマティライスを盛り、その上にパパドという豆の粉を薄く焼いたせんべい。バスマティはジャスミンライスのように香りがなく、カレーで煮込んだおかずとの相性がとてもいい。

小皿のカレーは日替わりでおかずが変わるが、定番はサンバル(豆と野菜の辛酸っぱいカレー)とラッサム(塩酸っぱいスープ)。あとは、ココナツカレーやダル(豆のカレー)やポテトの炒め物、ホルモン煮込みやカボチャなどの小皿もたまに出てくる。カレーとナンを注文すると、1種類か2種類のカレーに小さなライスが付いてくるのが一般的。ミールスなら、ふんだんに豆と野菜と肉を使った味の違うカレーが何種類も楽しめる。

インド/ネパール料理は、ご飯をたっぷり食べさせる。ミールスのいろいろな小皿はご飯をモリモリ食べる仕掛けなのではないかと思う今日この頃である。

抜き書き録〈2023年7月〉

コロナ前に途中まで読んで最後のページまで到らなかった本からの抜き書き。本は無作為に読んでいるが、引用箇所はたまたま言語が共通テーマになった。


📗 『エッフェル塔のかけら――建築家の旅』(岡部憲明)

夕日を背にしたエッフェル塔は光の中に溶解し、風とたわむれ、空の織物となる。エッフェル塔は限りなく透明な構築物だ。なめらかにのびる四本の足から加速度的に空の一点へと収斂していく。透明な軽さは重力を感じさせない。

靴がかなりくたびれるほどパリを歩いた日がある。石畳が多いから靴底のクッションは重要だ。歩くリズムの中に街を感知しながら、予定以上に歩いてしまう。一休みはカフェで、フランスのエスプレッソ「エクスプレッソ・・・・・・・」を注文し、舗道と通行人をぼんやり眺めて午後のひとときを過ごす。パリ市内ではどこにいてもエッフェル塔が見える。パリに三度訪れ、合わせて20日以上滞在したが、エッフェル塔は見飽きない。エッフェル塔は空間的存在のみならず、変幻自在な言語的存在でもある。表現が尽きない。

📗 『言葉とは何か』(丸山圭三郎)

言葉は、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有の概念化・構造化であって、外国語を学ぶということは、すでに知っている事物や概念の新しい名前を知ることではなく、今までとは全く異なった分析やカテゴリー化の新しい視点を獲得すること(……)

国際広報の仕事をしていた20代、30代の頃、日英の翻訳も業務の一つだった。「これ訳しておいてもらえる?」と気軽に依頼されたが、気楽にできるものではなかった。翻訳とは二言語間の単なる文字面もじづらの置き換えではない。ものの見方、感情や生活様式、慣習、風俗など、何から何までそっくり照らし合わせなければならないのだ。AIがどこまで概念化・構造化としての言語を分析できるようになるのか、興味津々である。

📗 『言語の科学――ことば・心・人間本性』(チョムスキー)

言語は6万年前、突然変異で人間の脳が再配線され、それを契機に生まれた能力である。言語が人間を人間にしたのだ。

人間を人間たらしめているのが言語なら、言語のどの要素が最も決定的なのか。言語は人間どうしの意味の共有を可能にした。今ここにないモノをその名によって伝え、見えない時間や感情を記号化して分かり合えるようになった。この6万年間、ホモサピエンスの他にこの能力を獲得した動物はいない。しかし人間は、言語と引き換えにそれまで駆使していたはずの固有の能力のほとんどを失ったはずである。