すでに十分にわかっているつもり。だから調べようとしない。〈情報〉とはそういう類の術語。調べなくても怠慢とは思わないが、ひとまず『新明解国語辞典』を引いてみた。
じょうほう【情報】 ある事柄に関して知識を得たり判断のよりどころとしたりするために不可欠な、何らかの手段で伝達(入手)された種々の事項(の内容)。〔個別の事項が生のまま未整理の段階にとどまっているというニュアンスで用いられることもあり、知識に比べて不確実性を包含した用語〕
並大抵ではない苦心の跡が窺えるので、短時間で一気に書いたのではないだろう。三日三晩、いやそれ以上、ああでもないこうでもないと費やしたかもしれない。語釈だけで済ませておけばよかったのに、解説という深みに入って逆に荷が重くなったのではないか。
情報は〈知識〉と並べて定義するのがわかりやすい。今も「知識産業」という表現が時々使われているが、陳腐感は否めない。1960年代にすでに知識に代わって情報が優勢になっていたはず。知識は、“know”(知る)から派生した“knowledge“の訳語。あることを知ってそれを保存するのが知識。知識は「溜める/ストック」を前提とする。「知識を身につける」とはそういうことだった。
一方、情報は“information“で、これは“inform”(伝える)から派生している。主として「inform+(人)+of/about/on+(こと)」という文型で使われる動詞で、誰かが別の誰かにあることを伝えるという行動を意味する。知識の「溜める/ストック」に対して、情報は人どうしの間での「伝える/フロー」が特徴。
知識も情報もほとんど同じことなのだが、知識が「保存性」を特徴とし、情報が「流動性」を特徴とするのである。溜めて価値を生むのが知識、流してこそ価値を生むのが情報と言い換えてもいい。
「知らせ、通知、便り」という意味のドイツ語、“Nachricht“に森鴎外が〈情報〉ということばを当てた。情報は鴎外の造語である。「情を報せる」とはやや古風に響くが、誰かが別の誰かに伝えるという点はしっかりと押さえられている。
自分が知りえたことを他人と分かち合い、社会で他人とつながろうとするのが情報の善用である。しかし、情報は悪用も可能で、自分が知りえたことは秘匿し、他人が知っていることを盗み取れば競争優位に立つこともできる。ともあれ、情報化社会は今に始まったのではなく、有史以来ずっと人間は情報行動に生きてきたと言うべきだろう。