奈良県生駒市と大阪府東大阪市の境にある暗峠。奈良街道まではまだ2キロメートル弱の地点で眼下に広がる大阪市を眺望した。高層ビル群が高密度に聳える様子がよくわかる。その向こうは大阪湾、そして神戸。
元禄七年(1694年)の五月、松尾芭蕉は江戸を立って郷里の伊賀に帰省した。同年の九月、伊賀を出て奈良に入り、暗峠を越えての道すがら一句を残した。これから向かう大阪の街も一望したに違いない。翌十月、芭蕉は花屋仁左衛門の宿の裏座敷で亡くなった。終焉の地は今の御堂筋界隈である。
大阪を見下ろした地点からすぐの所、峠道の脇に碑が建つ。最初の「菊の」と最後の「哉」は読めたが他がわからない。書家だった父は石に刻まれた崩し字をよく判別した。崩し字を自らも筆で書いていたから読めたのだ。書きもせずに読めると思うのは厚かましい。最近は碑のすぐそばに説明板がある。カンニングするから解読力もつかない。
菊の香にくらがり登る節句哉
重陽の節句、旧暦の9月9日に詠まれた一句。帰宅してから、明治二十二年(1889年)に俳句結社の有志が再建したものだと知った。野ざらしで約130年も経っていれば、石の碑面が劣化も進み判読しづらいのもやむをえないと自分を慰めた。
およそ100メートルほど下ったところに勧成院という寺がある。ちょっと覗いてみたら、狭い境内の端っこに短冊形状の句碑を見つけた。こっちは劣化がひどくて手も足も出ないが、最初の文字だけ菊と読めた。掃除をしていたボランティアの女性に尋ねたら、一枚の紙を取りに行って手渡してくれた。これも帰宅してから目を通した。
この句碑は、もと峠の街道筋にあったが、いつしか埋没、行方不明になっていたものが大正二年八月の大雨で出現、勧成院の境内に移し建てられた。
この一枚と先の説明板に目を通して碑のエピソードがようやくわかった。行方不明だった碑は寛政十一年(1799年)だから、峠の碑よりもさらに90年古く、傷みも激しい。碑面に彫られた句は峠の句と同じ。ところで、芭蕉は同じ日に別の一句の「菊の香」を詠んでいる。
菊の香や奈良には古き仏達
この句碑には出合わなかったが、出合っていても菊と奈良以外は読み解ける自信はない。