とりとめのない話五題

📝 先日、第42代米大統領の名前がとっさに出てこなかった。十数秒後に「ヒラリー」が浮かび、すぐにビル・クリントンにつながった。以前覚えて知っているはずのことをとっさに・・・・思い出せなくなるのを「ど忘れ」という。では、とっさに思い出すことをどう呼べばしっくりくるか?

📝 食レポだったと思うが、ある人が「この料理は情報が多い」とつぶやいた。情報が多いという表現は平凡だが、料理と結びついて新鮮に聞こえた。食材、盛りつけ、調理方法、ことばにしづらい味……コメントしたいことがいくらでもあるという感じか。そう言えば、自宅にいても仕事をしていても、ものすごく情報の多い日とほとんど情報のない日がある。情報の多い日は疲れるが、情報の少ない日は物足りない。

📝 中原中也「帰郷」のラスト2行。

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ

この冬一番冷えた124日、強い寒風に凍えそうになって半コートの襟を立てた。「あゝ おまへはカイロを貼ってくるべきだった」と、吹き来る風が云った

 

📝 ノーベル賞受賞者のスイスのディディエ・ケロー博士。太陽系外惑星の最初の発見者だ。地球外や太陽系外惑星に生命体が存在する可能性は? という問いに博士は答える。

「宇宙のどこかに生命が存在する、と私は確信している。理由は簡単で、恒星の数も惑星の数も限りなく多いから。逆に、地球上にしか生命がいないと考えるほうが不自然だ」

なるほど。しかし、「宇宙には地球以外に生命が存在しない」とぼくは確信している。理由は簡単で、一度もお目にかかったことがないから。逆に、宇宙のどこにでもいると考えるほうが不自然だ。この宇宙の中で地球にしか生命体がいないという奇跡にそろそろ人類は気づくべきではないか。

📝 のべつまくなしに癒されたがる人、結構回りにいる。もう十分に癒されているように見えるし、これ以上何をどれだけ癒されたいと言うのか。「癒されたい」とか「ああ、癒される~」とかを耳にすると、ちょっとキモチ悪い。癒しは、質ではなく、量的に求められるようになった。残念である。ほどよく疲れるほうがよほど上等な癒しだと思う。

フルサービスとセルフサービス

ステーキ店で焼き加減を聞かれる。「お任せします」と言ってもいいし、好みの、たとえば「ミディアム」と言ってもいい。任せても好みを言っても、料理人がフルサービスでやってくれる。客はプロが焼くステーキを食べることに専念すればいい。

寿司店は高級な店でも回転寿司店でもフルサービスが基本。寿司めしを手に取ってネタを乗せて握るのは店の職人であり、客が寿司をセルフで握ることはない。客は「トロ」だの「イカ」だの「ウニ」だのと注文さえすれば、あとは懐と相談しながら食べればいい。

自宅でたこ焼きをしたり串カツを揚げたりはするが、店に入って自分でたこ焼きを作ったり串を揚げたりしたことはない。それが当たり前だと思っているが、少数派ではあるがセルフサービスのたこ焼き店や串揚げ店が存在する。セルフと言っても、出来上がったものを取ってくるのではなく、テーブルに備え付けの調理器具を使って自分で作るのである。

本来料理人に任せるべき調理の一部始終のうち、焼いたり揚げたりという、どちらかと言うと、微妙な作業を客自らセルフでおこなうとは、奇妙である。関西ではその奇妙な習慣が一部のお好み焼き店で続けられ今に至っている。客自らが個室で焼くセルフお好み焼きの名店が千日前にある。イラスト入りの指示書に従えば、下手に焼いてもまずまずの味に出来上がる。しかし、焼き慣れたプロに焼いてもらうほうがうまいに決まってる。

先日、『焼肉のことばかり考えてる人が考えてること』(松岡大悟著)というおもしろい本を見つけた。焼肉にはステーキよりも格段に高いエンターテインメント性があって、それが人々の心を惹きつけているという。しかし、と著者は言う。

「実は焼肉屋には、どえらく大きな落とし穴がある。それは肉を焼くという作業を、客自身が担当しなければならないということだ。」

ステーキ店との決定的な違いがこれである。ステーキは料理人が焼き、焼肉は客が自分で焼く。どんなに上質の肉でも下手に焼くとまずくなる。火加減や焼き時間は肉の部位によって変わる。裏返すタイミングも難しい。炭で焼くかガスで焼くかの技の使い分けも必要だ。

客は焼肉を食べに来ているのに、一番重要な「焼き」という調理を任される。調理に参画しても割引サービスはない。自前で焼き、焼き過ぎて焦がしても自己責任を負う。「こちら特上カルビです」と言って店側はテーブルに一皿を置くが、焼き過ぎに注意程度の指南しかしてくれない。試しに最初の一切れを焼いてくれることはあるが、後は任される。

にもかかわらず、焼肉店に通っては性懲りもなく自分で焼く。どんなに店側が上手に焼いてくれるとしても、ステーキのように厨房で焼いた肉が運ばれてくるのを望まない。自分で焼きたいのだ。何度も焼いているうちにコツをつかみ、部位によって焼き方も覚える。うまい焼肉への道は厳しく長いが、あの本に書いてある「遠火の強火」を焼きの基本として精進されることを願う。

見たこと、聞いた話

インド人? ネパール人? パキスタン人? スリランカ人?……顔や体躯を一目見ただけでは区別がつかない。彼らをまとめてぼくは「インド人らしき・・・人」と呼ぶ。大阪のインド料理店で働いているのはパキスタンやネパール系の人が多いと聞いたことがある。店で「あなたは何人ですか?」と聞いて確かめていないので、真偽はわからない。

近くのインド・ネパール料理店の店長はネパール人。自らそう名乗った。かなり食べ慣れたのでインド料理とネパール料理とスリランカ料理の違いがある程度わかるような気がするが、違いを説明するのは難しい。どの店に入ってもいろいろと尋ねるが、答えもいろいろ。一口に日本料理と言ってもいろいろあるのと同じ。

ぼくの住む街ではインド人らしき人とよく出会う。ステレオタイプな印象になるが、女性は小柄でさっさと速足で歩く。男性は細身で髭を生やしていて、たいてい自転車を漕いでいる。そして、イヤホンをして電話をしている。何だかんだと早口で割と大声で喋っている。


同じマンションに数年前までインド人A氏が奥さんと住んでいた。夫婦二人暮らしだが、よく友人が遊びに来て食事をしていた。A氏の5階からぼくの8階まで香ばしいスパイスの匂いが上がってきて、誘ってくれないかなあと願ったものだ。男の子と女の子がいて、インドで学校に通っている。つまり、両親とは別居。長期休暇になると日本で両親と暮らす。

A氏とはエレベーター、エントランス、道でよく会い、会えば英語と大阪弁で話を交わした。「先週テレビで見ましたよ」とぼく。「あ、見てた? そう、神戸の教会やね」とA氏。インド人のシーク教徒が礼拝する教会とのことだった。ちなみに、A氏はいつもターバンをしていて濃くて長い髭をたくわえている。

A氏によると、ターバンを巻く男性はシーク教徒のみで、髪も生涯切らず、髭も伸ばすばかりでまったく剃らない。シーク教徒は人口の2パーセントにも満たないのだから、ターバン組は少数派なのだ。日本人の抱くインド人の風貌のイメージは固定観念だった。「インド人と言えば、ターバン」などと言うと、ほとんどのインド人がびっくりする。

A氏の奥さんは、いつ見てもエコバッグからはみ出るほどのニンジンを買い込んでいた。インド料理にニンジン? といぶかったものだが、後年、スパイスの効いたアチャールという漬物だと知る。味こそ違うが、インド料理でもネパール料理でもスリランカ料理でも添えられたり小さな壺に入れてテーブルに置いてあったりする。インド人らしき人たちはみなアチャールを食べる。ぼくにとってもアチャールは福神漬けのような存在になった。

晩餐会の「食性」

西洋料理のコースの主菜をいただく時に、あるシーンがいつも頭をよぎる。時は19世紀後半、デンマークはユトランドの辺境の村を舞台にした映画『バベットの晩餐会』の一コマ。あの物語の主菜は「うずらのフォアグラ詰めパイケース」という、贅沢でアヴァンギャルドな料理だった。

ヨーロッパでは野生の山鶉が食べられる。フランスでは解禁が11月、食卓にのぼるのは年に2ヵ月足らずと聞いた。産地ではこの希少食材を地元民は珍重する。好きだ嫌いだなどとは言わない。しかし、鶉の主菜は世界から様々な食性を持つ人たちが集まる晩餐会では規格外。わが国でも忘年会で鶉料理のメインが出てきたら、幹事失格の烙印を押されること間違いなし。

スウェーデンのノーベル賞の晩餐会では、主菜はたいてい鴨か仔羊である。わが国ではいずれも苦手な人が少なくない。世界標準では宗教的理由から豚肉や牛肉は出しづらい。また、伊勢エビや蟹などの甲殻類も禁忌食材とされる国々がある。もし世界からセレブが集う晩餐会に招待されたら、鴨か羊を覚悟しておかねばならない。


前日に琵琶湖で狩猟された野生の鴨を丸一羽もらったことがある。宅配されて梱包を解いて仰天しそうになった。いっさい手が入っていない状態で、例の色鮮やかな羽毛付きのマガモ(真鴨)だった。苦手なクチなら嫌がらせだと思うだろう。捌きと下ごしらえに苦しみ、かなり時間を要したが、鍋料理と炙りに仕上げて少し癖のある野趣に富んだ肉を堪能した。

「鴨がねぎ背負しょってくる」と言う時、あの鴨は鍋の食材を想定している。葱さえあれば、他に白菜や豆腐などの具材がなくても、鴨鍋は成立する。話は牛鍋になるが、池波正太郎は牛肉と葱だけのすき焼きが絶品と言った。葱の切り方にも注文がつく。斜め切りではなく、ぶつ切りにして縦置きにして煮る。

閑話休題――。稀にマガモが売られているのを見るが、安上がりに自宅で鴨料理をするならアイガモ(合鴨)だ。元を辿れば、アイガモは野生のマガモとアヒルを交雑交配した家禽。アヒルそのものがマガモを品種改良したものなので、アイガモもマガモに分類される。大阪でアイガモと言えば河内かわち鴨がブランド。2019年のG20大阪サミットで供された。

その河内鴨の料理を出してくれる店が、オフィスから23分の所に2店ある。どちらの店もランチメニューになっている。一方がアイガモの鴨なんば、他方がアイガモの丼とラーメン。後者がひいきで、表面だけ軽く炙った、ほぼ刺身状態のたたき丼が目当て。これまで10人くらい誘ったが、乗ってくれたのは2人のみ。鍋や蕎麦ならいいが、たたき丼の敬遠率は高い。

拾い読みと抜き書き〈2024年1月〉

わざわざ抜き書きするのだから賛意を表しているのだろうと、他人は思うらしい。そうとはかぎらない。賛意の場合もあるが、同意でもなく意を唱えるでもなく、よくわからないが、気になるので傍線を引くこともある。意見保留または感想放棄のままの抜き書きというところだ。今月はそんな3冊の本(3人の著者の本はそれぞれ10数冊、いや、それ以上本棚に並んでいる)。


📖 松岡正剛『切ない言葉』(「遊学の話」より)

一所から他所へ赴くのが「遊」の本義ならば、
一所にいて他所を徘徊するのもまた「遊び」である。

一所から他所へなら、たとえば「旅」がそうであり「引越し」や「転職」もそうだ。経験的にはたしかに「遊」だった。では、一所にいて他所を徘徊のほうはどうか。たとえば、今ここにいて他所を想像すれば遊び心が搔き立てられる。本業があって、それをベースにして、別の仕事をしてみるのも楽しい。

こんなふうにそのまま読めばいいのか、それとももう少し深読みするべきなのだろうか。この著者が書くのだから何か新しい「遊」なのだろうと期待するが、案外当たり前のことが書かれているのかもしれない。だからと言って、がっかりしているわけではないが……。

📖 中村雄二郎『人類知抄  百家言』(「ニーチェ」の項より)

毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念しなければ、毎日は下手に使われ、翌日も駄目になるおそれがある。

ニーチェのこのことばは難解である。「神は死んだ」よりも難解だ。著者の説明を元に、抜き書きの前段と後段を加えて再掲してみると次のようになる。

小さな自制心が欠如すると、大きな自制心もついえてしまう。毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念しなければ、毎日は下手に使われ、翌日も駄目になるおそれがある。自分自身の支配者となるよろこびを保持したければ、この体操は欠かせない。

体操とは「毎日一回、小さなことを断念すること」であり、自分自身の支配者とは「自分をコントロールすること」だろう。小さな欲望を捨てられないと、人生の大事な場面で自制心がかなくなる……だから、毎日小さな欲望を捨てて、日々を上手に生きよう……そうすれば、自分を統御でき幸せになれる……と読み替えたがはたしてそれでいいのか。とは言え、毎日少なくとも一回、何か小さなことを断念できるほど、いろんな欲望を持ち合わせているわけではない。断念したくても断念するネタが先に尽きる。

📖 池田晶子『あたりまえなことばかり』

老いるほどに人生は面白くなるという言い方は、確かに可能である。
肉体は衰える、知力も衰える、しかし、ひょっとしたら、魂が最も活発に活動するのはこの時期であるのかもしれない。
その歳まで、いったい何をしてきたのかといぶかりたくなるような老人は多い。おそらく、何もしてこなかった。摂食、生殖、快楽の追求以外は何もしてこなかった。刺激に反応し、反応したら忘れるといった動物的生存の日々、そのような人々は、したがって老いることを拒む。

社会から老い始めたと見られる自分や同輩に照らし合わせると、おおむねその通りだと言える。ただ、魂の定義次第だが、肉体と知力が衰えたら魂も不活発になりそうな気がする。もし魂を精神と言い換えるなら、精神は知力に支えられるのではないか。

老いることを拒んで強引な策を凝らすのが加齢と闘う「アンチエイジング」、老いるペースに応じて生きる工夫をするのが加齢と融和する「スローエイジング」。意地や見栄を張る前者よりも、老いを素直に認めてしまう後者のほうがうんと楽である。

語句の断章(49)「須く」

文化庁が2020年に実施した「国語に関する世論調査」。「すべからく」の意味に関して次のような結果が出た。

半数以上が意味を正しく知っているとは……。正直なところ、これには驚いた。なぜなら、漢文訓読調の「須く~すべし」という表現を使った知り合いのほとんどが、「すべて」という間違った意味で使っていたから。「世の中は何もかも、すべからく・・・ですからね」という具合。

正答が誤答を上回った理由はすぐにわかった。須くの意味は「当然、ぜひとも」か、それとも「すべて、みな」かという二者択一でアンケートを取ったからだ。初見の人もすべてという意味だと思っていた人も、逆を選んで正答になったのだろう。

須くは辞書にちゃんと載っている。昔に書かれた本を読むと目にすることがある。現代文ではめったに出くわさない。会話ではぼくよりも若い世代の、いわゆるインテリ系がたまに使う。古い本では正しく使われ、会話では間違った意味で使われる。

わざわざ「青年は須く勉学すべし」などと言ったり書いたりしなくても、「若いうちにぜひともしっかり勉強してもらいたい」でいい。つまり、今の時代、須くにはほとんど実用の出番がない。須くは読み方と意味を尋ねる雑学クイズか漢字検定で使うために生き残っているようなものだ。

なお、読みも意味も知っているが、この歳になるまで須くを一度も使ったことはない。仮に無理して使ったとしても「すべて」という意味に取られるはずである。

あ、アルフレッド!

昨日、『博士ちゃん新春スペシャル』を見た。ある分野にとびきり詳しい小中学生の博士ちゃんたちをクローズアップする番組だ。本物の博士と遜色ない専門性のすごさに驚かされる。知識もさることながら、言語能力が際立っている。

二人目の博士ちゃんは葛飾北斎を目指す14歳の少年。海外に流出したと伝えられる北斎の幻の作品を探し求める構成だ。オランダとイギリスを訪れて専門家の話を聞き、間近で実物の版画を見せてもらう。ぼくが思わず声を発したのは大英博物館での一シーンである。

「あ、アルフレッド!」

アルフレッドは30年前にライターとしてぼくの会社に勤めていた。起業してから国際広報の仕事が忙しく、常時2人の英文ライターがいた。当時は20代の半ばか後半だった彼の風貌はだいぶ変わっていた。しかし瞬時にわかった。アルフレッド・ハフト、大英博物館のアジア部日本セクションの学芸員。

なぜ瞬時にわかったか。実は、10年くらい前だったと思うが、これまで一緒に仕事をしてくれたアメリカ人ライターたちを検索してみたのだ。マイケル・・・、アダム・・・、リサ・・・ら、順番に検索したが、おびただしい同姓同名の人物が出てきて手も足も出なかった。ところが、同姓同名が少なくなかったものの、検索し始めてすぐにある一人のアルフレッド・ハフトにピンときた。

添えられた写真の面影と日本セクションの学芸員という肩書がヒントになった。そして、プロフィール文中にある“Mitate, yatsushi, furyu”(見立て、やつし、風流)が決め手になった。そんな話をしたことを思い出したのである。プロフィールの最後にメールアドレスがあり、「うちの会社にいたアルフレッドか、ぼくのことを覚えているか、元気にしているか……」というありきたりなメールを送った。

返事がきた。やっぱりあのアルフレッドだった。「日本で英文をたくさん書いた経験が今生きている。感謝している」と書いてくれていた。たしかあと一往復メールのやりとりをしたと思う。

あのメールから10年。江戸時代の日本独特の概念や作品の研究をしている旧知の博士と、葛飾北斎を追い求める少年博士ちゃんのツーショットはほほえましかった。アルフレッドの控えめで誠実な話しぶりは当時のままだった。元日の災害と翌日の事故で気分はかんばしくなかったが、いい番組が見れて少し気分が持ち直したような気がする。