比較してわかること

モノの大小、味覚の甘辛、価値の重要度、色の違いなどは、二つ以上のモノ、味、価値、色をそれぞれ比較して違いや度合がわかる。大きな樹木と言えるためには小さな樹木を対置させる必要があり、コーヒーの味なども飲み比べしてこそわかるもの。大雑把に甘いと言うだけではわからない。甘さにも度合があり、その度合を知るには別の甘さとの対比がいる。


🍷  自宅で一人でワインの飲み比べをしようと思うと、数本のボトルを用意して抜栓しなければならない。出費もバカにならないし、賞味や保管の問題もある。と言うわけで、たいてい1本が空になるまで23日かけて少しずつ飲み、空になってから翌日以降に別の1本を開ける。日が変わるからこれでは飲み比べにならない。と言うわけで、ワインショップのフェアやデパートの試飲コーナーを利用する。週に1本1種ペースで飲むよりも、1日数種少量を飲むほうがワインの香りや味がわかる。

🌎  GDP比較で日本がドイツに抜かれて3位から4位に転落した。あちこちからガッカリ感が伝わってくる。順位で言うなら、卓球の男子チームの世界ランキングは20242月現在、1位中国、2位ドイツ、3位日本で、こちらもドイツに負けている。ぼくはGDPで抜かれたことよりも、卓球でドイツが上だと知って驚いた。GDPのような雲をつかむような概念に一喜一憂するよりも、もっと残念がるべきことがいろいろあるはずだ。

🗝️  1年とちょっと前、ある寺で「びんずる」の像を見た。その時、この機会にと思って漢字の「賓頭盧」もしっかり覚えた。先日、ハルカス美術館で開催中の『円空』で、円空自身が彫った「びんずる」を見た。漢字はすっかり忘れていた。「あ~あ」と嘆きそうになったが、1週間前に設定したパスワードを今忘れていることに比べれば、別に大したことではない。

📈  職場も自宅も大阪市中央区。1989年に東区と南区が合併して中央区になった。当時の東区で起業したのがその2年前の1987年。その当時の東区と南区の人口を合算すると61,589人である。中央区になってから一番人口が減ったのが、阪神淡路大震災の1995年で、52,874人。都会とは思えないほどの減少ぶりだ。
2006年に職住接近を望んで自宅も中央区に移した。当時の人口は69,284人。大阪市24区の中ではかなり少ない。最新の状況はどうか。
2024年(つまり今年)の21日現在の数字を見て驚く。なんと114,483人で、24区の中では「中堅」になった。人口の推移を見てあの年この年を比較していると、いろいろと見えてくるし思い出す。ワインのビンテージ(製造年)の飲み比べに似てなくもない。

食べ物考――好奇心と奇食

ローカルな食材が世界を巡る時代になって久しい。たいていの食べたいものは手に入るようになり、居ながらにして世界の美食や珍味を堪能できる。もし国内で手に入らないなら、懐に余裕がある向きはご当地へ赴いてお目当ての好物にありつけばいい。

人間はどのようにしてある特定の食材を常食し、やがて嗜好するようになったのか……。和辻哲郎はその著『風土』で次のように書いている。

人間は獣肉と魚肉のいずれを欲するかにしたがって牧畜か漁業のいずれかを選んだというわけではない。風土的に牧畜か漁業かが決定されているゆえに、獣肉か魚肉かが欲せられるに至ったのである。同様に菜食か肉食かを決定したのもまた菜食主義者に見られるようなイデオロギーではなくて風土である。

大昔はこの通りだった。世界を見渡せば、今も一部の集落において和辻の指摘する風土の影響を強く受けて生きる種族がある。彼らは通販やふるさと納税を利用して遠方から目新しい食べ物を取り寄せることはない。地場の限られた旬の食材に依存し、風土の食性に縛られている。縛られていても、好き嫌いはしないし、狭食習性を嘆くわけでもない。


食わず嫌いとは、試しに食べもせずに、理由もなく食材や料理を嫌うこと。かつては生活風土の中では誰も食わず嫌いをしなかった。しかし、生活風土圏外で初めて見る珍しい食材を警戒し、手を出して口に入れて常食するまでには長い歳月を要した。人間は食わず嫌いを少しずつ克服して食性を広げて今に至っている。

しかし、どんなに飽食するようになっても、食べたくないものを食べない人たちはいるし、仮に何かが苦手でも、他に代替できる好物はいくらでもある。ぶつ切りにされてなおうごめくタコ、牛の脳みそ、昆虫やカエルは、わが国では食べ物の常識から外れた奇食と見なされる。他方、ある人たちが奇妙な食材として遠ざけるものを、別の人たちは違和感なく好む。

世界の4大食肉と言えば、生産量順に鶏肉、豚肉、牛肉、羊肉。若い頃から食事会の幹事によく指名されたが、羊肉を苦手とする者が一番多いため、あらかじめ大丈夫かどうかを確認するか、野暮なことは聞かずに黙って焼肉店にしていた。羊肉の食事会に誘う時は必ず人選して小人数で行くことにしている。「誘われたら行きますよ」というレベルでは不合格だ。

延辺朝鮮系やイスラム教徒系の中国人が経営する店では羊肉を使った料理が多い。写真は茹でた羊大骨ヤンダ―グーの盛り合わせ。二組に一組はこれを注文する。羊肉スープを取った後でも旨味と肉が少し残っていて、太い骨をつかんで香味タレに付けて骨回りの肉を少しずつ齧る。ストローを使って骨の中の髄を吸う。まったく奇食とは思わないし、格別にうまいわけでもないが、盛り皿のインパクトに目は好奇心で輝き、人は遊牧の民になる。

抜き書き録〈テーマ:都市〉

題名に「都市」を含む本を本棚から取り出して拾い読みしている。拾い読みするにしても、何か取っ掛かりがないとキリがないので、知っている都市の話を拾ってみた。目を通したのはとりあえず4冊。


📖 『裏側からみた都市 生活史的に』(川添 登)

中世都市の裏側は、ルネサンスが象徴する人間復興や技術革新や生産増大の恩恵を受けていたのか……。普通に考えればそうだが、庶民の暮らしは置き去りになることが多い。

「シエナ市の条例によると、台所のくずを投げ出したり、窓から容器の中身、つまり汚水を捨てたりすることを、夕暮れから夜明けまでの間は禁止していた。ということは、昼間なら自由にできたということである。」

トスカーナ州の世界遺産の都市、シエナには二度佇んだ。州都のフィレンツェ繋がりで観光客も多い。ひどかった中世の街は今、窓枠やカーテンを取り換えるにも市の認可が必要だ。徹底した規制のお陰で、今のシエナでは、表も裏もなく、観光都市の条件である景観と清潔が保たれている。

📖 『都市の使い方』(粉川哲夫)

都市のいろんな使い方があるが、大阪の下町育ちのぼくには喫茶店とアーケードのある商店街が印象的な記憶だ。ぼくの記憶とぴったりと重なるような一節が書かれている。

「大阪の梅田の街をうろついているうちに、コーヒーがのみたくなって曽根崎のある喫茶店に入った。二階の窓側の席に腰を下ろすと、アーケードに通じる街路が見おろせる。」

378年前の午前11時頃の光景らしいが、買物をする女性が意外に多いと著者は感じたと言う。平日の午前11頃に曽根崎界隈を歩けるのは限られた人たちだ。大都会になった今の梅田には、時間が止まったまま昭和の余韻に浸らせるエリアがまだ残っている。

📖 『都市計画の世界史』(日端康雄)

「フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマ、ロンバルディアの上流階級の一族たちは、彼らの都市を飾りたて、メディチ家、ボルジヤ家およびスフォルツァ家は、古典的モティーフで飾りたてた新宮殿を自ら建設した。教会もこうした動きに一枚加わった。」

引用された都市にはルネサンスゆかりの建造物が現存している。くまなく見て回ると、156世紀の中世ルネサンス都市の繁栄には名門家系の経済力が不可欠だったことがわかる。都市計画にはお金がかかったのである。
同じ頃、わが国でも都市化が進んでいた。欧州が宗教色の強い都市だったのに対し、わが国では戦国武将の手になる、防衛力重視の城下町が発展した。まずまずの規模の現代の都市はみな、かつて複合的な機能を持つ城下町だったのである。

📖 『都市のエッセンス』(望月輝彦)

パリにも何度か行っているが、世紀末を嗅ぎ分けるだけの街歩きの経験はない。世紀末と言えばデカダンスだが、もちろんそれだけではない。

「一八八九年のパリ万国博覧会にエッフェル塔が誕生した。作者のエッフェルの造形意識の不在にもかかわらず、エッフェル塔は来たるべき二〇世紀の“技術美”を暗示するメルクマールとなった。」

19世紀末の都市では20世紀が「良き時代」になるだろうと予感させた。たしかに世紀末の爛熟らんじゅく頽廃たいはいは新世紀でも残り続けた。人々は豊かさと享楽に酔ったが、予期せぬ二度の世界大戦で都市は疲弊した。再生された現代の大都市に、行き先が定まらず物憂げにさまよっている幻影が見えることがある。

「誰それを知っている」

縁と人と関係について書こうと思う。

大学の先輩筋にあたる人だが、初対面の時に、自分の紹介よりも先に「誰それを知っている」ことを強調した。ぼくはまだ40歳になる前で、仕事のために縁を求めようといろんな人に会っていた頃だ。「誰それを知っている」と言うその先輩を頼もしく感じたのを覚えている。誰それを知っていると誰それを知らないとの差が大きいことはよく承知している。

知識や経験にもモノにも縁が生まれる。知識があるとか経験を積んでいるとか、店の名、商品の名、本のタイトルなど、「何々を知っている」という縁にも期待を寄せがちだ。ブラフと紙一重の縁もあるが……。

人との縁は求めて叶うものでもないし、欲張って結ぶものでもないことはすぐにわかった。それでも、縁は異なものであり神妙に響くし、他の類語では言い換えしづらい。「コネ」と言ってしまうと、その異にして神妙なニュアンスが消えてしまう。縁は縁と言うしかない。


縁について考えていくと、人と関係の話に行き着く。人間を「にんげん」と読めば人のこと。人間万事塞翁が馬の諺のように「じんかん」と読めば世間のこと。世間は人々が集まって作る社会。で、その社会とは? と問うと、堂々巡りになってしまう。社会という集合体は、人々と人間関係でできているからだ。

さっきコネと書いたが、コネは“connection”で、縁と同様に人間関係を意味する。誰かと誰かが繋がるのが関係。関係は多義語だが、繋がり方次第では時に怪しげにもなる。たとえば「関係がある」や「親しい関係」と言うと、何か裏があるのではないかといぶかってしまう。

今月に入って、ぼくの「誰それを知っている」がきっかけになって、関わった2件の仕事で助けてもらった。その2件の誰それさんにとっては、ぼくが以前「誰それ」だった。持ちつ持たれつ。振り返ってみれば、この1年も公私ともに縁のネットワークでやってこれたと思う。

海外旅行と為替相場

日本を発つ前に換金し過ぎたために、使い切らずに持ち帰ったユーロ紙幣が引き出しに入っている。円高ユーロ安の201111月の換金だから、円安ユーロ高の今は1.5倍の価値になっている。

先月、リーフレットやチケット類を適当に入れていたファイルにバルセロナのサグラダファミリアの入場券を見つけた。201111月にバルセロナとパリに旅した時のもの。ペア入場料は23ユーロ。円高ユーロ安のおかげでバルセロナのホテルもパリのアパートもお得感いっぱいだった。入場したこの日は20111115日、為替相場は1ユーロ105円。換算すると2,415円である。

打って変わって円安ユーロ高が続く昨今だ。202429日の今日、1ユーロは161円。サグラダファミリアのペア入場料は前より3ユーロ値上げされて26ユーロ。なんと入場料は4,186円に。もちろん、この驚きの感覚は現地に住む人にはない。日本から行って為替相場上で計算するゆえの驚きだ。



20096月、サンフランシスコとロサンゼルスに滞在していた。ロサンゼルスでは郊外の従妹の家で1週間過ごした。大谷翔平の移籍したドジャースの本拠地ドジャースタジアムのチケットを従妹が手配してくれて観戦に出掛けた。

料金がとても安いと感じた。なにしろ当時は1ドル91円と、考えられないほどの円高ドル安だったから。今日のドルははどうなっているか。1ドル149円である。ぼくの旅した頃と比較すると1ドルが58円高くなっている。

円高時のいい時にヨーロッパやアメリカに旅した人なら、円安の今は出掛けづらいだろう。幸いなことに、安い時にユーロを買っておいたので、まずまずの差益が出ている。その差益がなくならないうちに旅程を組むのも一案だと考える今日この頃。

現地では以前も今もコーヒーは1ユーロかそこらなのに、「前は110円だったのに今は160円か」などと旅人は失望する。旅に出るたびに通貨を「翻訳」しては感じる、実に不思議な為替相場のマジック。

語句の断章(50)「加減」

加減ということばから真っ先に想起するのは、学生の頃なら四則計算の足したり引いたりの加減。ついでに、「いい加減」が口癖だった教師も思い出す。口調や顔つきもついでによみがえる。

数学なら足したり引いたりの多少に縛りはないが、熱や水や調味料や圧力になるとデリケートに調整してほどよい状態にする必要がある。数学離れをした今では、加減と言えば、塩・砂糖・醤油などの調味料の量や味のことであり、強火・中火・弱火などの調理のことを連想する。

「匙加減」を辞書で引くと、薬剤の微妙な調合をおこなうことと書いてある。料理用語になる前は、医者が匙で薬剤をすくって混ぜていた。だから、「匙加減一つでどうにでもなる」とは、患者を生かすも殺すも医者の薬の量次第という意味だった。

現在、加減は多義にして多用に使われる。勝負事に弱い相手には少し手加減をしてあげるし、風呂には人それぞれの好みの湯加減がある。風邪気味で身体の加減がかんばしくなくなったり、待ちに待った春先には陽気の加減で体調が思わしくなくなったりする。仕事やミッションを途中で投げ出すといい加減なやつだと言われ、ついには堪忍袋の緒が切れた上司に「いい加減にしろ!」と怒鳴られる。

いい加減のいい・・は元は「い」だから、文字通り好ましい意味だったが、否定的なニュアンスが込められるようになった。単発で「いい加減」と書いたり言ったりすると、テキトウとか無責任という意味に取られる。肯定的に使おうとするのなら「好い加減」と書き、「い加減」と言えば誤解されずに済む。そうそう、あの昔の教師は「いい加減」ではなく「よい加減」と言っていた。

シニアたちの日々

シニアの生活や社会との関わりについてコラムを依頼されることがある。何度書いても「シニア」ということばはしっくりこないが、それに替えて老人や高齢者と書くわけにもいかない。

ヘルマン・ヘッセに『老年の価値』という本があるが、老年・老齢・老境が頻出し、人を指す時は「老人」の一択である(翻訳本なので、「老人と訳されている」と言うべきか)。肯定的な存在として老人が語られる。たとえば次の一文。

「老年は、私たちの生涯のひとつの段階であり、ほかのすべての段階と同じように、その特有の顔、特有の雰囲気と温度、特有の喜びと苦悩をもつ」

「老いてゆく中で」という一篇の詩では、「若さを保つことや善をなすことはやさしい」が、「心臓の鼓動が衰えてもなおほほ笑むこと」を学ぶべきだと綴る。シニアの一人であるぼくは、今朝階段を上り下りした後に大きく深呼吸したが、たぶん疲れた表情をあらわにしていたはずだ。修行が足りない。

自分がすでに十分シニアなのに、他のシニアを「自分より・・シニア」として見ることがある。たぶん自分もそんなふうに見られているのだろう。商店街やスーパーで高齢化しつつある客層を見て、その中に自分が紛れる時、自他のシニア度を比較していることに気づく。まだまだ修行が足りない。

昨日、午前10時に開店するスーパーに行った。こんな時間に来るのは初めてだ。まだ5分前なのに、すでに店は開いていた。少なからぬ、見た目一人暮らしのシニアがすでに熱心に品定めをしていた。狩猟民のように見えて頼もしい光景だった。寒い外で待たせるのは気の毒だと、早めに開店する店の配慮がやさしい。

先日、焼酎のお湯割り用グラスのいいのを見つけた。値が張る。以前なら「これで飲めば普通の焼酎がうまくなる」と考えたものだが、今は「自分の家飲みグラスじゃないか。酒に酔わずにナルシズムに酔ってどうする」と言い聞かせる。そして、グラスの値段に相当する900ml焼酎を3本買う。迷わずに、体裁よりも実を取る。

平均的シニアは日々をやりくりして暮らし、行動やシーンごとに細やかに考えて対応する。シニアを一言で語ろうとしてはいけないが、敢えて一文にするなら、シニアは案外「合理性を重んじて生きている」。