目的のない、気まぐれな散歩

自宅を出て歩き始める。しばらくして知り合いにばったり会う。面倒な人だと足止めを食らう。案の定、聞いてきた。

「いい天気ですねぇ。どちらまで?」(別に知りたいわけでもないくせに……)
「近場でちょっと散歩です」(と言って、しまったと後悔する)
「散歩……健康にいいですなあ」(ああ、食いつかれてしまった。健康のために歩いてなんかいないけど、そうとも言いにくい)
「少し冷えていますが、歩くと温まりますからね」(あ、また余計なことを口走った)
「身体を冷やすのはよくないですから」(よくないのはこの会話だ)
「そうですね。では、失礼」(軽く会釈して、応答を待たずに立ち去る)
「健康的でうらやましい。行ってらっしゃい!」(離れていく背中に声が届く)

「健康のための散歩」を唱える人がいるが、散歩に目的はいらないだろう。散歩とは漫歩まんぽや遊歩である。そぞろに歩けばよく、難しく考えることはない。身体と相談して調子がよければ速歩すればいいし、歩数も増やせばいい。

散歩は空間移動である。変化する光景や風景への適応行動だ。散歩を散歩たらしめるのは、適当に歩を休める時間だと思う。疲れを感じたら、誰かに遠慮するまでもなく、どこでもいいから腰掛けて足を伸ばす。適度に休息もせずひたすら懸命に歩く人がいるが、あれは散歩ではない。

仕事ではないのに、まるで仕事に精を出して任務を果たすかのように歩く人がいるが、そうなると、散歩と名付けた歩行トレーニングになってしまう。まったく楽しそうに見えない。

よく歩けば筋肉がほどよくつくし、仕事も頑張れる。昨日、Eテレで料理の鉄人の道場六三郎が、料理は数時間連続の立ち仕事だから、よく歩くようにしている、と言っていた。後付けで説明すれば「仕事で頑張るため」という目的があるようだが、習慣化された散歩に目的はない。散歩するから「いろいろといいこと」が生まれる。いろいろといいことを目的として歩いているのではない。

散歩を健康に結び付けられるのが嫌なので、最近は「街歩き」と呼ぶようにしている。街歩きが目的なのではない。散歩も街歩きも気まぐれな一つの行動なのだ。

ずいぶん以前に勉強会の目的を聞かれて「ない!」と答えたら、その場にいた人たちにおかしいと言われた。そんな批判は意に介さない。目的のない勉強会が楽しいのだ。同様に、散歩に目的を置かなければ束縛されることはない。歩くことくらい自由気ままにしておきたい。無目的と気まぐれが散歩の本質である。