ある日突然やってくる。時間のことを考える時間が……。たとえば、時計の針で表わされる時間を過剰に意識した一週間の後の休日に、時計の文字盤で刻まれる時間とは別の抽象的な時間のことを考えることがある。秒針の音が聞こえない、概念的な時間。
「時間が過ぎた」という表現は半時間や一時間にも使えるし、長い歳月を暗示することもできる。先のことを考えるなどと言って、一ヵ月や一年先の話を持ち出すが、そんな時間スパンで物事を考えることはめったにない。したいと願っても、自分の身の丈の先見性では所詮無理である。
一日はあっと言う間に過ぎる。一ヵ月は長すぎる。と言うわけで、一週間が時間の分節としてポピュラーになる。週単位の時間サイクル思考をしている自分に気づく。一度水曜日始まりのカレンダーを自作したことがある。若干発想の転換を図ることができたが、不便このうえなく、すぐにやめた。
カレンダーは日曜日始まりか月曜日始まりと相場が決まっている。始まりが必ずしも重要な曜日とは限らない。
長年親しんできた休息の日曜日。ぼくにとってそれは始まりではなく、週という時間の中心概念。そのイメージを図案化して印を彫ったことがある。太陽系と時計の文字盤の合体。名付けて「週時計」。
よく「時間待ち」などと言う。実際に待っているのは時間ではなく、別の何か。何かのためにやり過ごさねばならない時間。時計を乱暴に扱えば潰せるが、時間を潰すのは難しい。時間は無為に過ごすか、うまく生かすかのどちらかであり、反省したり満足したりの繰り返し。
時間は不思議である。時間のことを考えると余計に不思議になる。やがて面倒臭くなって考えるのをやめる。しかし、時間のことを考える時間は、忘れた頃にふいにやってくる。