定義はいろいろ

辞書辞書を引く。頻度の高い見出し語には定義や語釈が多いことに気づく。また、辞書ごとに定義のラインアップが違うことも分かる。一般辞書から離れて専門用語辞典を覗けば、目新しい定義が目につく。もちろん、用語の定義はこれだけにとどまらない。

アンブローズ・ビアスが『悪魔の辞典』を著したのは一世紀も前のことである。正統派の辞典に対し、裏から斜めから、あるいは前衛的に字義解釈をおこなった「異端派の辞典」である。今日まで悪魔の辞典の流れを汲む本は絶えず発行されてきた。ぼくの本棚にも数冊が並んでいる。言うまでもなく、おもしろさという点では広辞苑や新明解は太刀打ちできない。

「博士」という号がある。正統派の定義では、「学問やその方面の知識・技術に詳しい専門家」ということになる。他方、異端派の『ビジネス版悪魔の辞典』(山田英夫著)によれば、博士などは定義していない。代わりに「博士号」についての皮肉がつぶやかれる。「博士号をもつ研究者を多数擁しながらも成果が出ない状態を、『ドクタースランプ』と呼ぶ」という具合だ。アラレちゃんか……。いま話題の某研究所の内情がアラアラにアレアレ状態だから、これを根も葉もない用例として切り捨てるわけにもいかない。


〈無知の知〉はソクラテス哲学の重要なテーマの一つである。無知を自覚する時点で、何でも知っていると錯覚している者よりもましだということだ。人はどれだけ学んでも何から何まで知ることができないという点で無知だと言うのである。これも一種の悪魔の辞典的用例ではある。

仕事柄、知識の多寡や知の研鑽について考える機会が多いが、「知っている」というのは人それぞれだとつくづく思う。ぼくから見れば、あるXについてA君はB君よりもよく知っている。ところが、A君本人はまだまだ知らないと自覚しており、B君はかなり知っていると過信している。A君には無知の知がある。正真正銘の無知というのはだいたいB君タイプである。余談だが、ネットでちょこっと調べ物をして知ったかぶりをしていると、やがてB君になってしまう。

以上から、悪魔の辞典風に言えば、【無知】とは「知っていることが知らないことよりも多いと錯覚している状態」。ついでに、【浅学】とは「あることについて、知らないことが知っていることよりも圧倒的に多い状態」である。さらに、【博学】は「ひろいと表わすものの、実は、浅学よりもほんのちょっとましな程度」に過ぎない。依然として、知らないことが知っていることよりも絶望的に多い状態である。

分母に「∞(無限大)」を置けば、まことに人はみな平等に無知な存在に出来上がっている。しかし、現実社会においては誰も知の領域を無限大などと見なしていない。だから、ものをあまり知らない人間とものをよく知っている人間が入り混じる。前者のほうが楽そうだが、そういうわけにもいかないのが無知を自覚する者の宿命なのである。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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