毎日または隔日に一つの記事、あるいは週や月にいくつの記事などと決めているわけではない。「ねばならない」という強迫観念をブログに持ち込むつもりもない。書くという行為は、ぼくにとって意地や決意などではなく、(1) 自分の考えをまとめ、(2) よければ想定した読者に読んでもらい、(3) その人にインスピレーションのヒントか少し愉快な時間を提供できればいい、という動機から来ている。
日曜日に出張から戻ってきて、すでに下書きを完了していた『週刊イタリア紀行』のブログを仕上げようと思ったら、不具合が発生。不具合の原因は専門的でよく理解できないが、ついさっき回復して解決したという連絡を受けた。どなたからかコメントも入っていたが、それが消えてしまって申し訳ない。同時に、ぼくの下書き原稿も消えてしまい残念である。
人生や命に別状がないから無茶苦茶に残念がることもない。大した災いでもないが、「災い転じて福となす」に倣おうではないか。そう思い直して、下書きした原稿をあのまま公開しないでよかったと考えることにした。しかし、そう考えるためには、あの原稿の欠陥なり問題を見つけなければいけない。それは、ある意味で批判を加えることでもある。次のように振り返り自己批判した。
実はフィレンツェを取り上げたのだが、何回シリーズという構想なしで一回目を書いた。ちょっととりとめなく序章を書き、思いつくままアルノ川の南岸の話に発展させた。あれはまずかったかもしれない。それに、「花の都」というタイトルをつけていたにもかかわらず、ルネサンスについて一言も触れていなかった。それも検討不足だ。文章の推敲も不十分だったかもしれない。
ここまで反省して、ちょっと待てよ、何か変だと気づいた。「災いを転じて福となす」は、下手をすると、単なる楽観主義になってしまうのではないか。失敗してもこれでよかったんだという安堵感が漂っていていいのか。あの原稿、あれはあれで書けていたではないか、それなのに根掘り葉掘りで欠点探しをしているのはおかしいぞ。
冷静に考えれば、消えた災いが福になると信じるのはただのお人好しだ。だいいち福になんかなっていないじゃないか。なにしろほぼ出来上がっていた原稿が消えたのだ。もう一度時間を費やさねばならないのだ。もっと悔しがらないといけないはずである。
いま「費やさねばならない」と書いた。冒頭の「ねばならない」という強迫観念だ。この思いはまずい。今回の一件、決して福ではない。だが、「災いを転じてネタとなした」ことを不幸中の幸いとしておき、ここでやめるのが災いに終止符を打つタイミングだろう。