いま手元にエドワード・デ・ボノ編『発明発見小事典』という、初版が昭和54年の古い本がある。本棚の整理をしていたら見つかった。愛読書というわけではないが、マーケティングの講義で製品事例を取り上げるときに時々参照していた。巻頭で監訳者が、この本の原題にもなっている「ユリーカー!」について書いている。一部だが、そのまま引用してみよう。
「この王冠は純金なのかそれともにせ物なのか」という王の質問にたいし、アルキメデスは、湯ぶねにつかったときからだが浮き上がった瞬間に正解を得たのであった。そのとき彼の叫んだ言葉が「ユリーカー!」である。「わかった」とか「できた」とかいう意味で、アルキメデスは、はだかのまま「ユリーカー! ユリーカー!」と叫びながら王宮にむかって駆け出したという。
「水中の物体はその物体が押しのける水の重量だけ軽くなる」という、よくご存知の〈アルキメデスの原理〉の誕生秘話である。これは発明ではなく発見ということになるのだろうか。なお、この「ユリーカー」ということばは、正確に言うと「私はそれを見つけた」という意味で“eureka”と綴られる。発音は諸説あって、「ユリイカ」「ユーリカ」「ユーレカ」をはじめ、そのままローマ字読みする「エウレカ」というのを目にしたこともある。
人類史上最初の発見ではないが、ユニークな発見として語り継がれてきた。その後の発明発見の歴史の華々しさと加速ぶりには目を見張る。ことごとく紹介すればキリがないが、同書のア行の「あ」で始まるものだけで、アイスクリーム、アーチ、圧力釜、編み機、アラビア数字、アルミニウム、安全カミソリ、安全ピンが揃い踏みする。
発明されてから今日に至るまで現存し進化してきたものは何らかの必要性に裏打ちされている。おそらくその他の無数の発明品は需要されなくなり、見向きもされなくなり、やがて消えてしまったのだ。昔はあったけれど今では一般家庭とは無縁になった品々を博物館や古物展などで目にすると、ちょっとしたノスタルジーに浸ってしまう。
ぼくが小学生のとき、祖父は煙管に煙草を詰め、一服しては火鉢の枠をカンカンと叩いて灰を落としていた。その煙管、今では時代劇にのみ小道具として登場し、鉄道の切符の料金をごまかす「キセル」ということばとして残るのみ。切符や定期の電子化にともないキセルという概念も消える運命にあるのだろう。実際、このことばを使って、「それ、何ですか?」と聞かれたことがある。
さて、煙管がまだ日常的であった時代に遡って、うちの祖父らに「もし煙管がなくなったら、どうでしょう?」と尋ねたら、「そりゃ困るよ」と答えたに違いない。徐々に使用頻度が低くなりやがてなくなってしまうのなら困らない。しかし、必要性の絶頂期に毎日使っているモノが忽然と消えてしまっては不便この上ないだろう。
「もし~がなくなったら」と、「~」の部分に愛用品を入れてどうなるかを推測してみる。今この部屋にある携帯電話、PCとUSBメモリ、メガネ、壁時計、カレンダー、居酒屋のポイントカード、広辞苑、ペーパーウェイト、のど飴……。すぐ目の前の窓の外には、自動車、コンビニ、ラーメン店、自動販売機、交番、信号、いちじくの木……。なくなったら困るものもあるが、当面少しの不便さえ我慢すれば消失に慣れてしまえそうなものもある。「もし~がなくなったら」と問いかけて、「少し不便だが別に困らないかも」と思えるものを近いうちに身辺から一掃してみようと考えている。
「もし~があったら」という願望を叶えるために発明されてきた文明の利器に感謝を示しつつも、「ユリーカー!」と叫ぶことばかりに躍起になってきた生活スタイルも見直すべき時が来た。なくても困らないものを見直し、少々の不便に寛容になる生き方を学習してみたい。