少々の不便との共生

数日前に発明発見の話を書いた。人類の飽くなき便利への歴史。便利の恩恵で自分の生活が成り立っているとつくづく思う。他方、どこまで行けば気がすむのだろうと危惧もする。

ぼくは同年代あるいは次世代の人々の中にあって、間違いなく一つ珍しい不便を受容してきた。自家用車を所有したことがないのである。と言うか、運転免許すら取得していない。これまでの人生のほとんどを公共交通機関の充実した都心部に暮らしてきたことも大きな要因ではある。だが、実は、二十歳になる前から車を必要としない生き方をしようと決意していた。人的な他力依存はともかく、物的な他力依存は極力避けよう、なるべく負荷を背負い込むのはやめようと考えてきた。

どこへ行くにも徒歩か自転車か地下鉄か電車である。こんなとき車があればなあという場面にしょっちゅう出くわした。二十代後半から三十代前半にかけて、遅まきながら免許を取ってみるかと思ったこともある。しかし、耐えた。不便を受け入れた。そして、今に至っている。

その時々に不便を感じてはきたが、今から振り返ってみれば、まったく後悔などしていない。車を持つことによる諸々の気がかり、たとえば駐車場の確保、ガソリン代の高騰、交通渋滞のイライラ、税金・ローン返済などとはまったく無縁でいられたのだ。車にまつわる手かせ足かせがまったくなかった分、ぼくはいろんな趣味に手を染めることができたし、電車の中で本をよく読むことができた。気づきにくいものを徒歩目線で観察することもできた。ライフスタイル的には収支は大幅プラスだと思っている。


身の回りを文明の利器で固めれば固めるほど、身動きが取れなくなる。便利は人間を快適にするかもしれないが、甘えかしもする。甘えれば知恵を使わなくなる。便利が度を越すと、手先も不器用になり、アタマを働かせる出番も少なくなる。

人の暮らしを便利にするために生まれたコンビニエンスストア。その便利なお店は便利な街には存在するが、不便な土地では激減する。便利な自動販売機のおかげで商売人は客とのコミュニケーション機会を放棄した。便利と引き換えに失うものは決して少なくない。

こんなことを思い巡らせていたところ、新商品「手の汚れない納豆」を見つけた。発泡スチロールに収まった納豆と上蓋の間のシートがない。醤油出汁の袋の代わりににこごり状のタレが容器の角のくぼみに入っている。容器を開けて、お箸でタレをつまみ、納豆のほうに移してかき混ぜればよい。手はまったくネバネバにならず納豆を食すことができる。

納豆は食べたい、でも手が汚れるのが嫌な人が多いのだろう。しかし、もはやこれは便利の度を越している。慣れれば、あのシートは中央部分をつまんでくるめれば手を汚さずにすむ。タレも切り口のところに溜まっているのを少し押し下げておいたら、切ってもこぼれない。「いや、そんなにうまくはいかんだろう」と言われるかもしれないが、仮に汚れたからといって何が問題であり不便なのか。濡れフキンでひょいひょいと手を拭けばすむことではないか。

納豆があまり好きでない人にはいいかもしれない(そんな人が、こんなに便利になったからといって突然好きになるとも思えないが……)。さて、ここまで便利に生きてきたわれわれだ。いきなりの大いなる不便はつらいだろう。だが、納豆を食べる際の少々の不便くらいには目をつむるべきだ。手が汚れる不便くらい納豆といっしょに飲み込んでしまえばいい。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です