もう半世紀も前の話。知る人ぞ知る――しかし、当時はともかく、今となっては知らない人が圧倒的に多い――エドワード・デ・ボノが提唱した〈水平思考〉が一世を風靡した。水平思考とは、ありきたりな論理手順を踏む〈垂直思考〉の限界に挑戦した発想。考えるにあたって、深さよりも広さを優先し、掘り下げるのではなく見晴らすように考える。
デ・ボノは著書の中でアイデアが生まれる背景について、「個々の人々の心の内面で演じられた情熱があった。その情熱がアイデアを本物にし、ついに人間社会を変貌させる原動力になった」と語っている。対象を変えたいという願望が情熱を帯び、そのような願望を逞しくしていれば、考えるのと同等かそれ以上に〈偶察〉の機会に恵まれる可能性がある。
アイデアの海を思いのまま遊泳してみたいと願っても、おとなしくて平凡なことばでアイデアを引き寄せることはできない。経験的認識に偶然が作用してアイデアらしきものが触発されたとしても、それはいったいどんなもの? と尋ねられたら、ことばで示さねばならない。アイデアはことばによって揺り動かされ誇張されて形になる。
誰かのアイデアをみんなで共有する段になると、わかりやすく伝わるようにと意識するあまり、穏やかなトーンの表現になりがちだ。その結果、本来見所のあった「尖がったコンセプト」が均されてしまって、ゆるゆるになる。
そもそも既存の価値観から逸脱するからこそアイデアなのだ。どこかで聞いたことがあるとか、素直に受け入れられるとか言われたら、そんなものはアイデアではない。アイデアは平凡に対する非凡であり、テーマに対するアンチテーゼであり、常識や既存の知識では理解しづらい異種性を特徴とする。それゆえに評価の前に違和感が先立つ。
まっとうに表現してしまうと、どんなにすぐれたアイデアも月並みに聞こえてしまう。ちょっと過激じゃないか、毒気が強すぎるという文句、大いに結構。これで大丈夫? と不安を感じてもらえれば半ば成功なのだ。そう、デフォルメしてちょうどいいのがアイデア。是と非が、可と不可が相半ばし、リスクが内蔵されているのが斬新なアイデアの宿命である。