「鉛筆で文字を書く」という一文が意味することはすぐにわかる。もう少し詳しい情報があれば、状況や場面も映像として浮かび上がってくるだろう。鉛筆は触れることができる。鉛筆は〈✏〉のイメージにほぼ対応する。書かれた文字は実際に見えるし、書くという行為も繰り返し何度も経験済みだ。
では、「幸せな生活を過ごす」はどうか。誰もがよく使う一文である。言ったり書いたりする方はわかったうえで使っていると胸を張れるか。聞いたり読んだりする方も意味がわかると言い切れるか。意味がはっきりしていると思って使い、だいたいわかった気になっているかもしれないが、いざ「幸せとは?」「生活とは?」「過ごすとは?」と突っ込まれて困り果てる。
幸せや生活のことを鉛筆や文字と同程度にはわかっていないのである。わかっていないけれども、あまり深く考えずに頻繁に使っている。ある時、根掘り葉掘り突っ込まれてはじめてわからないままに使っていることに気づく。突っ込まれて、意地悪されたとか恥をかかされたとか思ってはいけない。それどころか、ことばと思いの乖離に気づかされたことに感謝すべきだ。
あらためて辞書で確認するとしよう。たいていの辞書は、幸せを「満たされた状態」、生活を「考えたり行動したりして生きること」という程度の定義しか示してくれない。ことばを定義してもらっても、意味がわかったり使った人の思いが理解できたりするわけではないのだ。つまり、いくら語義を深く追究しても、文字面以上に「幸せな生活」をわかることはほとんど不可能なように思える。
文をばらして個々のことばを深掘りしても意味は明快にならない。ことばの意味や概念は、ことばを説明されたり言い換えられたりしてわかるのではなく、例示されてやっと何となくイメージとして見えてくるものなのだ。「幸せな生活」の場面や状況を、できれば複数の例によって描き出すことが「わからない」を「わかる」に変える。
話し手や書き手は「幸せな生活を過ごす」の後に「たとえば……」と続ける。「幸せな生活を過ごす」だけで終わった相手に対して、聞き手や読み手は「幸せとは何だ?」とか「生活とは何だ?」と突っ込まずに、「たとえば?」と協力する。意味は一人では明らかにならない。双方が明らかにしようと努めてはじめて意味は共有への一歩を踏み出す。