人は日々「もの/こと」を切り取って生きている。もの/ことという対象を五感を通じてとらえている(これを切り取りとか抽象という)。その時、知ってか知らずか、他の何か、別の何かを排除している(これを切り捨てとか捨象という)。
たとえば、景色を写真に撮る。構図内のある部分を強調してテーマにしたり、気に入っている箇所を切り取って残す。その時、不要な部分が捨てられる。トリミングとは切り取りと切り捨て――または抽象と捨象――を同時におこなうことだ。
ニュースのハイライト、コーヒーの抽出、広告のキャッチコピー、雑誌の特集、合格発表……これらすべてが、何かを切り取ったり抜き出したり選んだりしている。同時に、それ以外のものは切り捨てられたり、来るべきいつかのために保留されたりしている。
パリに北駅がある。パリ市内の北部に位置するので、当初はロケーションに由来する駅名だと思った。しかし、そうではなかった。駅名を付けるにあたってロケーションは本質的ではなかった。重視して抜き出されたのは、そこから向かう方面という要素だった。つまり、列車がパリの北、ベルギー方面に向かうから北駅なのである。特急タリスに乗車してブリュッセルへ向かった時、パリ北駅の意味が「パリの北方面に向かう出発駅」だとわかった。
パリから南東へ470キロメートルの位置にフランス第2の都市リヨンがある。しかし、リヨン駅があるのはパリだ。リヨンという地名がパリ市内にあるのではない。北駅と同じで、リヨン駅からはリヨン方面の列車が出るのである。リヨン駅とは「リヨン行きの駅」という意味なのだ。パリを出てリヨン市内に入るとリヨン・ペラーシュ駅という主要駅に着く。リヨンにリヨン駅はない。
土地の名称にちなむ駅名を付けるのが当たり前ではないか。しかし、「どこどこの駅」を捨てて、「どこどこ行きの駅」のほうを切り取っているのである。これは、新大阪に「東京駅」と名付け、今の東京駅とダブると都合が悪いので、本家のほうを「東京終着駅」に呼び替えるようなものである。
写真にしても文章にしても、あるいは考えやその他諸々の都合も、意識的または無意識的に何かを切り取り、そして同時に意識的または無意識的に他の何かを切り捨てる。発想の違いはこうして生まれるのだろう。そして自分の都合が、時として誰かの不都合になるということに、ぼくたちはほとんど気づいていない。