オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』のような難しい話は書けない。いや、できない。いつも通り、語句を断章的に綴るのみ。
大衆とは集団である。英語でも“mass”とか“public”と言うから、大多数から成る一つのまとまりだ。多くの人々で構成されるそのまとまりは権力や財力や特権を持たない。つまり、大衆は知識人やエリートや貴族ではない。どちらかと言えば、労働者的である。
食堂という普通のことばを大衆食堂と言い換えるだけでチープ感が滲み出る。「メシ屋」のイメージが強くなる。大衆食堂の単品メニューはカレーライス、オムライス、ラーメン、うどん、そば、チャーハン、丼である。定食は焼き魚、煮魚、トンカツ、鶏のから揚げ、野菜炒めなどの主菜に、ご飯、小皿一品、味噌汁、お漬物が付く。ご飯は大中小から選べる。
文学に大衆をかぶせてみよう。大衆文学はいきなり純文学との違いを主張する。純と違うなら不純なのだろうと勘違いされる。純喫茶でない社交場がかつて特殊喫茶と呼ばれたように、大衆小説も特殊な場面や関係が描かれることが少なくない。いやいや、それは偏見だ。できるかぎり幅広い読者層に楽しんでもらうのが大衆小説の売りだった。
ともあれ、以上書いてきたことはすでに過去の話である。今となっては大衆を見つけるのは難しい。人々が個性的で十人十色になったと言い切る自信はないが、高度成長時代までの十人一色という趣とはまったく違う。大衆は分衆化したのである。そして、分衆は「小衆」の様相を呈し始めている。
カタチを小衆に変えた現代の大衆は「ステキ」と「うざったい」の対象を変えた。彼らにとって知識人やエリートや貴族はうざったいのである。ネットはステキだが、新聞はうざいのである。思いつきはステキだが、理性はうざいのである。その昔、大衆の一員だった者が今の大衆についていけなくなり、うざい存在になりつつある。