「變」という難しい字を俗字にしたのが、普段使っている「変」である。これまでずっと普通だったことがおのずから終わること/あらたまること、あるいは、これまでずっと普通だったことを終えること/やめることが元の意味らしい。
その年の世相を漢字一字で表わす「今年の漢字」。2008年、「変」が今年の漢字に選ばれた。発表された時、「いつの年も前年と変わるし、この一年に限ってもこれまで当たり前だったいろんなことが変わった。いつの年も、恒常的に変ではないか」と思ったのを覚えている。「何か変!」と感じることも、よい意味で変わることも、悪く変化することも日常茶飯事である。
1975年、読者が電話すると作家の録音テープが聞けるサービスを新潮社が始めた。以後30年間続いたらしい。流れたテープのうち、星新一の肉声が数年前にテレビで紹介された。
「アポロ(1969年)以来、宇宙がしらけてしまって書きにくくなった。これからは日常の異常に……」
星新一の肉声の後に当時の新作『たくさんのタブー』が案内された。日常の異常という言い回しが不思議ではない時代になった。「何々の変」という小さなクーデターが、日々身の回りで――油断していると気づかないが――確実に起こっている。
宇宙、未来、歴史は知らないことばかりで、知らないがゆえの魅力と不思議に満ちている。想像を馳せてもなお、決定的な何かが見えないし知ることもできない。アポロ11号のように、精度の高い予測のように、オタク史家の博覧強記のように、いろんなことを明らかにしていくとつまらない。星新一の言うように「しらけてしまう」。しらけるとロマンや知的好奇心が消え失せる。
「何かが変」という感覚が生じるのは、今が常態で当たり前という視点に立っているからだ。この時、今の視点に与して変を排他するか、それとも変の感覚に従って今を怪しんでみるかという岐路がある。二者択一なら後者だが、懐疑が過ぎてしまうと、それこそ変なことになってしまう。