よほどのことがないかぎり、大人が「説明」の意味を辞書で調べることはない。みんなわかっていると思っているし、誰かに突然意味を聞かれることを想定していない。だから万が一誰かに説明の意味を聞かれたら困る。しかし困っても、「説明の説明? 何を今さら」などと居直るのも大人げない。
試してみればわかるが、たどたどしい物言いになり、ついにはことばに詰まる。説明についてよくわかっていなかったことに気づく。しかし、失望しなくてもいい。『新明解』にしてからが、「それがどういうものであるか(事情で存在し、また起こったか)を相手に分かるように(順序を立てて)言うこと」と、ずいぶんぎこちないのである。
企画書を書いたり人前で話したりすることを生業としてきた。読む人のために書き、聞く人のために話すのはわかってもらうためである。長年の癖で説明が饒舌気味になりやすい。この癖のお陰で仕事が成り立っているので悪しき癖ではない。しかし、この癖は曲者だ。説明過剰は野暮で美的感覚を損なうからである。
もともと美的感覚には不条理の要素がある。その不条理をほぐしてみせるのが説明だ。わけのわからないまま済ませず、ごまかさない。まるで正義の味方のようだが、説明に躍起になると人間もことばもつまらなくなる。それどころか、説明の根本であるはずの因果関係を見失ったり本末を転倒させてしまったりしかねない。
天気予報では台風の進路を示す「可能性」の円をよく見る。ある気象予報士が言った、「円が大きいと言うことは、進路の方向が定まらず絞られていないということです」。わかりやすい説明なので不都合はない。しかし、因果関係的には正しくない。進路が定まらないから円を大きく描いていると言うべきである。
辞書が言う「あることを筋道を立てて相手が分かるように書いたり話したりすること」は、知識がなければできないことである。しかし、相手の理解を以て完結するなどと考えるとハードルが高くなる。小学生から高齢者まで、素人から専門家まで、相手はいろいろである。相手相応の説明になっているかどうかは、やってみないとわからない。
説明についての説明をほとんどしていないことに気づいた。最後に、苦しまぎれに次のように説明しておきたい。
説明とは自分の知識に応じてできるかぎり物事を説き明かすことであり、相手が分かってくれれば幸いだが、説明の内容や相手の知識によっては説いたことがうまく伝わるとはかぎらない、そんな疎通努力の一つ。