「どのように」と「なぜ」

『サピエンス全史――文明の構造と人類の幸福(下巻)』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)に次のくだりがある。

(……)キリスト教がどのようにローマ帝国を席巻したかは詳述できても、なぜこの特定の可能性が現実のものとなったのかは説明できない。
「どのように」を詳述することと「なぜ」を説明することの違いは何だろう? 「どのように」を詳述するというのは、ある時点から別の時点へとつながっていく一連の特定の出来事を言葉で再現することだ。一方、「なぜ」を説明するというのは、他のあらゆる可能性ではなく、その一連の特定の出来事を生じさせた因果関係を見つけることだ。

生イカがどのように・・・・・スルメになるかという過程はことばで詳述できる。生イカを――他の別のものではなく――なぜ・・スルメにしたのかは描写できない。と言うか、そこには理由がいるのであり、理由とは原因と結果を明らかにすることにほかならない。

「どのように(How)」と「なぜ(Why)」は違う答えを求めている。しかし、この二つを鋭く峻別しなくても、いろいろと考えているうちに「どのように」が先に明らかになり、後付けのように「なぜ」が見えてくることが多い。生イカからどのようにスルメが生まれたかを考えているうちに「なぜ」も見えてくるのではないか。

おおよその見当や思いつきの後すぐに「なぜ」と問うと、拙速気味に収束へと向かいかねない。そうではなく、推定や偶察や願望を基本としてまず広げてみる。「なぜ、なぜ」と理由を探すことに先立って、「何をどうするか(What-How)」をイメージしてみるのだ。

「生イカをどうする?」や「羊乳をどうする?」や「小麦粉をどうする?」という問いに理屈を持ち込まず、アイデアを優先させる。生イカをスルメに、羊乳をチーズに、小麦粉をパンにというふうにアイデアを広げて試行錯誤する過程で様々な目新しい気づきが生まれたはずである。

論理や因果関係はものを考える上で必要不可欠な定番処理であるが、そういう方法にこだわりすぎるのは「何をどうする?」が見つからないからである。そして、堂々巡りになるが、「何をどうする?」が見つかりにくいのは、最初に論理や因果関係を優先的に扱うからである。何事においてもいきなりWhyから入っているとアイデアは生まれにくい。

料理のレシピは何をどうするかというHowの手順でできている。その手順の中には「なぜそうするのか?」という、手際よくおいしくするための理由コツが暗黙のうちに記述されているものである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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