知的権威やエリート主義に対して〈反知性主義〉は懐疑的な立場をとる。事実やデータや証拠を重視せず、理性的であるよりはプリミティブな感覚的判断を優先する。わかりやすく言えば、権威やエリートとは生理的に合わず、とにかくムカついてしかたがないのである。
知的な生き方に文句を言われる筋合いはない。それが個人的な実践であるならなおさらだ。知性は憎まれる対象にはならないし、反知性主義者にしてもいちいち個人の知性にいちゃもんをつけているわけではない。彼らが目の敵にするのは知的な生き方やそれを実践する知性ではない。〈知性主義〉という鼻持ちならないイデオロギーが気に食わないのである。
自分の周囲の目につくところに知性主義が目立つから、それに苛立って反知性主義が対立する。反知性主義を無知だ、幼稚だと批判するのはたやすいが、その前に行き過ぎた知性主義――愚か者と決めつけた人々に対する優越意識やエリート意識――にも反省を加えてみる必要がある。他人をバカ呼ばわりしていては折り合いのつけどころは見つからない。
ともあれ、反知性主義もまた、少々厄介なイデオロギーになった。これに対して、知性主義が逆襲してもなかなか「試合」にならない。知性主義が事実やデータや証拠で反論しても功を奏さない。なぜなら、反知性主義にとっては他人の事実やデータや証拠はことごとくフェイクに見えるからだ。議論しても接合しないし論点は嚙み合わない。論争して通じ合える共通言語が見当たらない。
知性に対する反知性、その反知性に対する知性という構図では堂々巡りの言い合いに終わる。知性主義はじっと我慢して主義を捨て、新たな対義語を編み出す必要がある。たとえば「良識」がそれ。知性主義の復権などといきり立たずに、「反知性 vs 良識」というような対立軸によってひとまず反知性主義を軽くいなしてみるべきではないか。
〈続く〉