考えるきっかけになるネタ

考えるためにはアタマをつねにスタンバイさせておかねばならない。逆説的だが、スタンバイには「何も考えない」状態も含まれる。哲学では、このような思考の空白状態を〈タブラ・ラサtabula rasa〉ということばで表わす。しかし、「この何も考えられない状態がタブラ・ラサなんだ」と高尚ぶって自分を慰めてみても、何も考えられない状況が続くのはやっぱり苦しい。精神力で歯の痛みを軽減できないように、根性を逞しくしてもアイデアは沸々と湧いてはくれないのである。

自動販売機のウーロン茶のボタンを押せばウーロン茶が出てくるが、アイデアはそのようなアルゴリズムに忠実ではない頭という自販機では、お金を入れてボタンを押してもめったに何も出てこないのである。たまに出てきたと思ったら、オレンジジュースを押したはずなのにコーラだったりする。ぼくたちが日々付き合わねばならない首の上の「そいつ」は、まるで詐欺師みたいなのだ。ところが、何ヵ月か何年かに一度、突如として気まぐれな大盤振る舞いをしてくれる。120円しか入れていないのに、缶コーヒーだのお茶だの天然水だのが何本もいっぺんに出てきたりする。


世に数ある発想法というのは、上記のようなアイデアのバーゲンを強制的に可能たらしめるべく開発された。人間誰しも、思考の空白や停止が続くことがある。さっぱり何も考えられない、何も浮かんでこないという時間帯や時期があるものだ。そんな時、ぼくは過去に記したメモを読む。メモが目次の役割を果たして脳内のデータを呼び出してくれることがある。次に、辞書も適当にめくる。ことばとの偶然の遭遇がヒラメキにつながるのを何度も経験している。

過去のメモと辞書に共通するのが、慣用句や諺との出合い――または再会――である。実は、ぼくのノートの3分の1くらいを表現や格言や諺が占めている。諺の、とりわけ比較文化的吟味が、考えるきっかけになってくれることが多い。

たとえば「早起きは三文の徳」。この「徳」を「得」とする俗解もある。いずれにしても、何かいいことがあるという意味。しかし、同時に「三文」はつまらぬものの代名詞でもある。つまり、「早起きしても、メリットはたかが知れている」とも読めるのだ。いや、「早起きしていると、小さいけれど徳が生まれる」と素直に読むのが正解か。

わが国では直截に人間のことを語っているが、英語になると“The early bird catches the worm.”と「鳥」が主役になって、「早起きする鳥は虫を捕まえる」と意味を変える。たいていの鳥は早起きだと思うので、虫を捕まえる鳥とそうでない鳥が出てくるではないかと心配する。三文の徳と虫の値打ちは比べにくい。精神を取るか、虫という朝飯を取るか。前者が「徳」で、後者は「得」になるのだろう。

イタリア語では“Chi non dorme piglia i pesci.”となる。「眠らぬ者は魚を捕まえる」だ。主体が人間になり、虫が魚になる。「早起き程度で何かにありつくなど甘い考えだ」と言われているような気がしないでもない。たしかに「眠らない者」は「早く起きる者」よりも優位に立つに違いない。並大抵の覚悟ではないだろうが、報われれば、虫どころではなく魚にありつける。ちなみに、英語の虫は単数形で一匹だが、イタリア語の魚は複数形で表されている。


ぼくには本題と違うところからネタを探す習性がある。本題にズバリ入ると思考が活性化せず、逆に縁遠そうな情報のほうが考えるきっかけになってくれる。考えに行き詰まったらテーマの足元を去り、ことばの世界を逍遥してみるのがいい。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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