過剰なる礼讃

さして強い関心もなく、また親しんでもいない事柄だからといって、頭ごなしに否定するほど料簡は狭くないつもりだ。だいいちそんなことをしていたら、きわめて小さな世界でごくわずかな関心事をこね回して生きていくことになってしまう。そんな生き方は本望ではないから、異種共存をぼくは大いに歓迎する。そして、多様性に寛容であるからこそ、自分の存在も関心事も、ひいては意見も主張も世間に晒すことができると考えている。

「ブログを時々読ませてもらっています。ツイッターのほうはやらないのですか?」と聞かれたこと数回。「ツイッターには関心ないのですか?」とも言われた。ツイッターに関しては本も読み、年初に塾生のTさんのオフィスに行って詳しく教わり、その後に食事をしながらIT系のコミュニケーションメディアについても意見を交わした。「ツイッター、いいのではないか」と思ったし、そして今も、「ツイッター、はまっている人がいてもいいのではないか」と考えはほとんど変わっていない。ただ、ぼくはツイッターに手を染めてはいない。どうでもいいなどとは思っていないが、ツイッターをしていない。する予定もないし、しそうな予感も起こらない。

物分かりのいい傍観者のつもりなのに、ツイッターをしていないだけでツイッター否定論者のように扱われるのは心外である。ぼくは自動車を所有せずゴルフもしないが、自動車とゴルフの否定論者ではない。車についてゴルフについて熱弁する知人の話に「静かに、かつ爽やかに」耳を傾ける度量はある。関心もなく親しくもない人間と話をするし食事もする。ごくふつうにだ。しかし、恋い焦がれることはない。強く求めもしないし強く排除もしない。いや、それどころか、存在をちゃんと認めている。共存するのにたいせつなのは、情熱ではなく寛容だと思うのである。


IT関連の知り合いから定期的にメルマガが配信されてくる。一人はかつて親しかったが、ここ数年会っていない。もう一人は一、二度会った程度で、「名刺交換した方に送らせてもらっている」という動機からの配信だ。前者がツイッター礼讃者であり、後者がipad礼讃者である。後者のメルマガはほとんど見ないが、前者には時々目を通す。彼は「ツイッターがすごいのは、世界中の人と出会うきっかけを提供していることだ」と主張する。さらに、「もっとすごいことは、繋がりを維持し続けることができることにある」と強調する。まことに申し訳ないが、本人が「すごい」と力を込めて形容するほど、ぼくにはすごさが伝わってこない。

世界の人々との繋がりを特徴としたのはツイッターが最初ではない。かつては飛行機がそうだったし、電話・テレックスがそうだった。旅をして現地の人々と交流するのも繋がりだろう。実は、繋がりはずいぶん使い古されたことばなのである。しかし、よく喧伝されるわりには、世界の人々は現実的には繋がってなどいない。ツイッターによって具体的にどう繋がっているのか、そして、繋がりとはいったいどういうことなのかが実感としてわからない。彼の言い分はぼくには仮想にしか見えないのである。

最後に「特に書く内容を熟慮もせず、時間的コストもかけず、多くの人と繋がりを維持することができる」と締めくくっている。彼は真性のツイッター礼讃者のようだ。熟慮もせずに書くメッセージをやりとりして、いったいどの程度に世界の人々は繋がることができるのか。ツイッター上だけでなく、安直なつぶやきで日々繋がろうとしている人たちはいくらでもいる。そして彼らは対人関係上もネット上もただつぶやくのみ。その場かぎりの、思いつきのつぶやきごときで世界の人々が繋がるなどということはにわかに信じがたい。

手紙を否定しないように、ぼくはツイッターも否定しない。しかし、構造のうわべだけを過度に礼讃するツイッター信奉者に首を傾げている。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「過剰なる礼讃」への2件のフィードバック

  1. ご無沙汰しています。うっかりすると60歳になってしまうので59歳のうちに一度おじゃまします。岡野ブログははっきり言って私には難しいです。でも、分からないのに面白く、分からないとは言いながら、今日のようなテーマでは、そう!私もまったく同じ思いです、と言いながら読んでいます。もしかして感性が似ているのかしら?と時々思います(失礼)1年に一度お話を聞くのを楽しみにしていますが、シャイなので名乗ってご挨拶した事がありません。今度お目にかかった時はイタリア語でご挨拶します。

  2. 小難しいことをお読みいただき感謝申し上げます。自分では難しく綴っているつもりはないのですが、ついつい思考が単純方向ではなく「こねる方向」に傾いてしまいます。これは一種の性向だと思いますが、男子59歳としてはもはや改造することはできません。不条理・不可思議に黙ることはできず、余計な一言をこれからも吐いていくつもりですので、よろしければ時折り思い出したようにお読みいただければ幸いです。女子59歳? 見当がついているような、ついていないような・・・・・・。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です