感応と響き(一冊の本を巡って)- 3 –

201110月にフェースブックで知り合い、翌年3月に一度会い、その後一年近くメールでやりとりをしていたNさん。去る8月に五十歳の若さで亡くなった。弔いの意味も込めて、そのやりとりの一部を三回にわたって再現している。感応と響きによって人は好奇心を逞しくし知を悦びとするというテーマである。

マルティン・ルター 岩波新書

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を巡る彼の疑問とぼくのフィードバックが止んだ直後に、「次に読むべき本を何か推薦してほしい」と言ってきた。ちょうど当時発行された『マルティン・ルター』(岩波新書)を読んだところだったので、「読書には好みというものがあるけれど……」と断って勧めることにした。そして、こう付け加えた。「今年に入って200冊くらい本を買っていますが、古典も含めていい本はいくらでもあるものです。Nさん、読みたい本は歳をとるにつれて加速的に増えるから大変です。うかうか死ぬわけにはいきませんよ。お互いに。」 

一週間後、「先生、マルティンを三冊注文しました。ありがとうございます。ことばに生きた革命者ですね」というメールがあった。なぜ三冊なのかはわからない。推薦した本を三部買ったのか、あるいはマルティン・ルター関係のものを三冊まとめ買いしたのか聞きそびれた。それからまたすぐにメールが来た。「先生、お疲れ様です。ルターは素晴らしい人です。もっと読んで咀嚼したい。自分は薬のせいもあるのですが、理解するのに何度も読まなくてはなりません。自分の能力がもどかしい。ですが、ルターなる人物を自分のものとしたいので頑張ります。すごい人物に出会わさせていただき感謝しております。」 ルターとは面識はないし、別に引き合わせたつもりはないのだが……。


レオナルド・ダ・ヴィンチ、モーツァルト、ガウディは「すごい」と思っている。けれども、ルターに「すごい」という表現は使わない。実際、この本も小躍りするように読んだわけではない。いや、この本だけに限らず、ぼくの読書姿勢は憎たらしく映るだろうが、根が冷静なのだ。それに比べて、Nさんは、『論考』がそうであったように、本を読むことに熱いのである。熱く読めば冷静に読むのとは違う何かが見えるに違いない。彼がこの本を必ず再読するという確信があったので、別の読み方の参考になればと思い、問われもしていないのにお節介な薀蓄をすることにした。

Nさん、あなたにお会いしてから4か月が過ぎました。この短い期間に急速に知の世界に染まっていく姿が垣間見えます。さて、マルティン・ルター。当時のヨーロッパの歴史の文脈を心得ておくと、また別の読み方ができると思います。
ルターという人物を浮き彫りにする上で知っておくほうがいいことがあります。アメリカ大陸が発見された1492年、彼は9歳でした。また、同時期にグーテンベルグの活版印刷が発明されたことに運命を感じます。活版印刷によって、それまで希少だった聖書が民衆に普及するようになりました。聖書のことを知りたければ教会に行って神父の話を聞くしかなかったのですが、ここから先、大衆は、聖書を教会で司教から聞くか自分で聖書を読むかという選択ができるようになりました。カトリック教会でなくてもいい、キリストの教えの源泉は聖書にあるとルターは考えました。それがプロテスタントの始まり。ご存知の宗教改革です。プロテストとは反抗という意味です。
極端に言えば、教会に行かなくても個人として聖書を学べばいいということになった。これは、「顧客」が減ることになるからカトリック教会にとってまずいことです。だから、この後、カトリックは信者の奪還を図ろうとしました。反宗教改革です。信者を取り戻すためには、ゴージャスで魅力的な教会がいる。それが絢爛豪華なバロック様式。この様式が教会建築に取り入れられるようになりました。一人で聖書を読むよりも、大勢でかっこいい教会に出向くほうが楽しいですからね。
カトリックプロテスタントのせめぎ合いは、ぼくのような非キリスト教信者には理解しがたいものがありますが、近世~近代ヨーロッパ史を読み解く上で欠かすことができません。

このメールの末尾に、読んでおもしろそうな本をいくつか紹介しておいた。Nさんから返信があった。

 ありがとうございます。本当に印刷の発明におけるルター、讃美歌におけるルターなど、まことに深く、坂本龍馬にも共通しているとこがありますね。何事にも深く、広く、自らの利得を考えぬ正義が素晴らしいと思います。新しい本のご紹介もありがとうございます。必ず読みます。先生と早く再会できる日が楽しみです。

ルターから坂本龍馬に飛ぶ発想はぼくにはない。さて、その後頻度はめっきり低くなったものの、思い出したようにいくばくかのやりとりはあった。しかし、再会する機会はついになかった。最後のメールは20137月。ぼくがいついつだったら時間が取れると連絡したら、「ありがとうございます。了解しました。ただ、自分は今月末からしばらく海外なのでよろしくお願いします」と返事があり、これが最後のメールになった。

三回にわたって400字詰め原稿用紙に換算して二十数枚書いてきた。ある男性からの問いにぼくが答えるというメールの形式を再現したのだが、薀蓄も含めてやりとりのほとんどがぼくの文章である。知識をひけらかす新しい手法などではない。それどころか、素朴な問いのおかげで、通り過ぎていたはずの本のくだりに立ち戻って再考する機会を得た。ぼくはつくづく思うのである。若い人が年上に、知的下位者が知的上位者に遠慮しすぎてはいないか、と。知的刺激を受けるに際して、恥ずかしいだの照れくさいだのという心理や、その他もろもろの屈折したコンプレックスなどかなぐり捨てればいいのである。問われて馬鹿にする上位者もいるだろう。そんな輩は捨てておけばいい。

分からないこと知りたいことを、自分より少しでも分かり知っていそうな人間に素直に聞けばいい。「満額回答」が返されるはずもない。しかし、何らかのヒントや刺激になるだろう。打てば響く人に――意見の相違とは無関係に――ぼくは共感する。そして、問われることによってぼく自身も背伸びをし、新しい知の地平を広げることができる。二人の間に知的格差があるとき、知の刺激は上位から下位へと流れるだけではない。下位から上位へと逆流もするのである。遅疑逡巡などせずに、手始めに問うことだ。ウィトゲンシュタインから始まった話をウィトゲンシュタインで締めくくろう。

「およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる。」 

《終》

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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