好きこそものの上手なのか?

何かを嫌うエネルギーによって幸運が逆説的に招かれる。そんな珍事の事例を昨日書いた。いまたまたま珍事ということばを使ったが、これが稀なケースかと慎重に考えてみたら、実はそうではない。意外にも頻繁に発生しているの。いや、ぼくの身の上に起こっているのではない。ぼくにはあまり起こらない。嫌悪エネルギーを炸裂させて何かを生み出してしまうのは、好き嫌いの激しい人たちである。

ぼくときたら、まず食べ物の好き嫌いがない。国内はもとよりどこの国にいても出された食べ物を拒否したことはない。もちろん罰が当たるのを恐れたりモッタイナイの精神で生きたりしているわけでもない。おそらく環境と習慣形成によるものだ。人間や仕事のテーマになると食べ物ほど何でもオーケーとはいかないが、世間の水準に比べれば許容範囲はかなり広いと思っている。好き嫌いがないのは、どちらかと言えば美徳とされているようだから、少しくらいは胸を張ってもいいのだろう。

ところが、この好き嫌いの無さが一概に長所にならないのだから不思議である。むしろ、好き嫌いのない特性が「癖がなくて、包容力があり、融通がきく」へと敷衍される。癖がないは「特徴がない」、包容力があるは「相手につけこまれる」、融通がきくは「ゴリ押しを受容する」と読み替えることができる。なんだか、少しもいいことがないではないか。まるで思想なき八方美人、あるいは無難な等距離外交みたいである。


嫌いなものがないことが「何でも好き」を意味するわけではない。「とりあえずオーケー」という程度の好みも多々含んでいる。そうなのだ、「好き嫌いがない」というほんとうの意味は「嫌いがない」ということであって、「何かをとても好んでいる状態」なのではない。だから、ここにおいて「好きこそものの上手なれ」は成立しにくい。「ものすごく好き」が際立たないと上手への道は開かれないからだ。

もしかすると「嫌いこそものの上手なれ」が真なのではないか。何事かを猛烈に嫌う人間は、その対極にある対象を極限にまで愛好するのではないか。「嫌いなものは嫌い」で生きている人間はおそらくわがままだろうが、他方で「好きなものは好き」を貫いているはずである。メリハリがあって、答えは決まっている。嫌いなものを再考する余地などないのだから、好きなものへと向かうエネルギーは好き嫌いのない人間の比ではない。ある対象への嫌悪は、その反動として別の対象への偏愛を生む。それが結果的に「好きこそものの上手なれ」につながるのではないか。  

好き嫌いのない人間がなんだか小器用な小人物に思えてきた。なるほどぼくが強みだと思っていた性向は実は弱みだったのかもしれない。いやいや、ぼくがそうだからと言って、好き嫌いのない「同胞」を同じように扱うべきではない。でも、好き嫌いの激しい人たちに負けない強みの一つでも見つけないと悔しいではないか。しばし黙考……。あった、彼らになくぼくたちにある強み。それは「迷う楽しみ」である。 

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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