「モーニング散策」と言ったら、「朝の散歩」と思われた。
「ぼくはあまり朝歩きはしないんですよ」
「じゃあ、モーニング散策って何?」
「自慢するほどのことではないんですがね、『モーニング』の良さそうな喫茶店を探し求めることなんです。歩くのは二の次」
若い頃からかなりの時間を割いていろんな表現を覚えてきた。覚えたものを使いこなすにはさらに時間がかかる。ことばには熟成が欠かせない。それに、使ってやろうと思っても使えるものでもない。場違いな使い方は無様である。
「多々益々弁ず」という成句を使う絶好のタイミングがあった。しかし、「話すこと言うべきことがどんどん増える」という意味に取られた。「弁」という字から連想するのか、弁術や弁論のことだと思われる。この表現、言や話のことではなく、「事」である。仕事や家事が多くなればなるほど巧みに処理する様子を表わしている。
せっせと身に付けてきた表現群の半分も通用しない時代になっているのかもしれない。
ノートのおよそ四分の一は読書の際に書き写した「引用文」である。引用文には出典を記す。しかし、たまに忘れてしまって、後で厄介なことになる。突き止められないのである。
「ヴィトゲンシュタインは理性的な判断は行動になって現れると考えた。そして説明というものは、記述で終わる必要があると。そうでないと終わりというものがないからだ。(……)」
一年半前のノートだが、最近読み返して下線部がえらく気に入ってしまった。前後を再読してみたいと思うものの、出典がわからない。ここ一年半以内に読んだ本を本棚から探し当てるのは難しい。しかし、おもしろいもので、微かに残っている記憶の糸を手繰っていき、ついにニコラス・ファーン著『考える道具』を突き止めた。デジタル万能に見える時代だが、手書きノートや本などのアナログも侮れない。記憶はバックグラウンドで働いているから、脳内検索を諦めてはいけない。
他方、きちんと出典を書いている文章もある。そこには後日再読して気づきを書き加えていることが多い。引用文は考えるきっかけになってくれる。
(……)「太平洋」は江戸時代まで我が国では何と呼ばれていたのだろうか。
じつは、「伊豆沖」「江戸沖」「宮城沖」などそれぞれの地域の「沖」という名前で呼ばれていたのである。
(山口謡司『日本語通』)
大西洋は「大」なのに、太平洋は「太」。もちろん「太い」という意味ではない。パシフィックオーシャンをほぼ直訳した「太平の海」のことである。それにしても、太平洋などという概念があったわけではない。村人にとっては村という「クニ」がまずあって、その後に大きな概念である国家という「クニ」が生まれた。海際に住む人々も同じだった。目の前の海を太平洋などとは呼んでいなかった。地元にとっては沖であり、そこに地名を冠して親しんだのだった。山も川も里も田もみんなそうだったに違いない。
ロシアの最東端に位置する山脈がある。チュコート山脈がそれ。日本列島から右上に目線を延ばすとカムチャッカ半島があり、その先に山脈の名が書かれている。そして、何度見ても、いつも「チョコレート山脈」と読んでしまう。
書きっぱなしで読み返さないノートほど無駄なものはない。書くことに意味があるのではなく、書いてからが勝負なのである。だから、ノート習慣を続ける人は時折り在庫管理をして更新する必要がある。それが脳内検索力と相互参照力を高めてくれる。要するに、自分で書いたノートを愛読書にしてしまえばいいのである。