声掛けとコミュニケーション

「誰々さんがいたので声を掛けた」。よく聞く話だが、この声掛けは自然にできたのか意識してのものなのか。たまたま目と目が合ったので儀礼的にしたのか、それとも無意識のうちに笑顔で「こんにちは、お元気?」と話しかけていたのか。お互い知り合いなのに声を掛けない人もいるが、ふつうぼくたちは知人友人を見つけたら声を掛ける。では、なぜ声を掛けるのか? こんなことについてあまり考えることはないだろう。仮に考えたとしても、うまく説明できそうにもない。

ちなみに、先日ぼくは知り合いの年長の女性を見掛けたが、声を掛けずに通り過ぎた。その女性はオフィス近くのビルのオーナーで、アパレル関係の企業も経営していた。そのビルの地階に紳士服の店を長らく出していて、ぼくは十数年来の顧客であった。よくスーツやネクタイを買っていたし、あまり文句も言わないので、店にとってはいいお客さんだったはずである。その店は数年前に閉店した。しばらくしてから別の場所で再開したとの案内はもらったが、新しい店には行っていない。まあ、とにかく店舗でぼくをいつも応対していたその女性だった。遺恨もトラブルもなかった。しかし、「あ、ごぶさただなあ」と内心思いながら、すれ違うだけだった。

むずかしい話をするつもりはない。日本人の場合、たとえば、エレベーター内で見知らぬ者どうしが挨拶を交わすのは稀だ。しかし、時折り、ホテルのエレベーターに先に乗っているぼくが「開ボタン」を押さえているのを見て、入ってきたご夫婦のどちらかが目を合わせて「あ、どうもすみません」と言う場合があるし、観光客らしいその二人に「どちらからお越しですか?」と尋ねるときもある。こんなふうに声掛けすることもあるのに、旧知のあの人に気づきながら、なぜぼくは知らん顔して過ぎ去ったのか。


一言でも二言でも声を掛け合うというのは一瞬の呼吸、理由なき波長感覚の仕業と言わざるをえない。しかし、そのような、間髪を入れぬタイミングだけが声掛けの引き金になっているのか。そうかもしれない。だいぶ前に混雑する駅のホームで高校の同級生とすれ違ったが、声を掛けなかった。こちらが気づき、相手が気づかなかった。これは一瞬の呼吸が合わなかったからかもしれない。また、別のときに別の友人にばったり遭遇してお互いに指を差して名前を言い合い、一言二言どころか、しばらく立ち話をしたこともある。おそらく一瞬の呼吸が合ったのに違いない。

しかし、ほんとうに一瞬の呼吸の合う合わぬが声掛けの決定的な要因なのかと自問すると、必ずしもそうとも思えないのだ。無意識のうちに声掛けするかしないかを何か別の要因によって決定しているような気がするのである。ぼくに関するかぎり、一つ明らかになった。それは、会話が愛想だけに終わりそうな気配を感じたら、自分から声を掛けないということだ。「だいぶ暑くなってきましたね」「そうですね」「扇子がいりますよね」「そうですね」「かき氷も恋しいですな」「そうですね」……実際にあった会話だが、ことごとく「そうですね」という機械的返事で肩透かしを食らいそうな予感があれば、めったに声を掛けない。エレベーターのような閉塞空間の場合のみ、やむなく最小限の儀礼的挨拶だけで済ます。

愛想トークが苦手。おまけに社交辞令が嫌い。かと言って、何かにつけて意味を共有化すべくコミュニケーションを企んでいるのでもない。そうではなく、話すべき何かを直感できなければ、敢えて声を掛けようとしないのだ。少なくとも、同じ知り合いでも「暖簾に腕押し」や「糠に釘」のタイプを見極められるようになった。コミュニケーションという大げさなものではなく、小さな話題でも意思疎通へと開かれそうか、すぐに閉ざしてしまいそうかを、たぶん直感している。ぼくは、アルゴリズム的な音声合成人間にはめったに声を掛けないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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