楽なように見えてきついこと

私塾大阪講座の今年度第1講が今日の午後に始まる。昨年までは午前10時から午後5時半までだった。ぼくにとってはまったく長丁場ではないが、昼食を挟んでの7時間半の思考鍛錬は慣れない人にはきつい。というわけで、本年の全6講は午後1時半スタート、6時半終了の5時間に変更した。午後からという気楽さ、二度か三度の休憩を挟んでの5時間は取り組みやすい。

しかし、この変更は「気楽にやれて、取り組みやすそうだ」というカモフラージュにすぎない。時間短縮は時間密度の高まりを意味する。なにしろ、ぼくの場合、時間量に合わせて講座を企画し話しているのではない。こんな講座でこういう学びと鍛錬機会を得てほしいと構想して、その内容をすべて盛り込むのが流儀なのだ。したがって、時間の多寡で内容は大きく変わらない。短時間になればそれだけきついというわけである。


道具は便利である。かんなは木材の表面を滑らかにしてくれたし、自動車は徒歩一日かかる場所へほんの12時間で連れて行ってくれるようになった。いろんな便利があるが、最たるものは出来の良さ、負担軽減、そして時間の効率だろう。とりわけ携帯電話や最新IT機器がこうした効率に関わる不便を便利に変えたのは間違いない。

ところが、便利になった一方で、人間から何かを引き算するのも近年の道具に共通する特性だ。鉋あたりで止まっている道具のほとんどは、見事な出来映えを可能にし、使い手の作業の負担軽減とスピードアップに寄与している。他方、携帯やIT機器はどうか。これらを使わなかった時代の人々に比べて現代人が格段にいい仕事をしているとは思えない。また、仕事を楽々こなしているようにも見えないし、短時間労働で切り上げて余暇を楽しんでいる様子も窺えない。

ぼくは楽になるためだけに道具を使うまいと心に決めた。道具は自分一人で達成できない仕事の質や生活の質の向上に用いるべきだろう。道具の価値を効率的便利だけに置くのをそろそろやめたほうがよさそうだ。道具に囲まれて送る日々の仕事や生活は、逆説的にとてもきついのである。


「きみは何をしたいのか?」を問うことは、「きみが他者、ひいては世間に何を施したいのか?」を問うことと同じである――こう言っておいて、あとは知らん顔したら、彼は意味がわからないようで苦悶していた。

「何かをしたい」は願望である。この願望が現実に叶うためには、好き勝手であっていいはずがない。その願望が行動になることを他者が求めてくれないかぎり、願望が実現する場所はない。人間社会というのはそうなっているのである。自分のしたいことは他人が求めることと同じであり、願望と施しは表裏一体でなければならない。

これは他者や世間のニーズに合った願望を持てということではない。そういう迎合的・反応的生き方をするならば、もはや願望ではない。「自分のしたいこと」が始めにありきでいいのである。その願望が他者や世間への施しにつながるように実現させる努力をするのだ。「夢や希望を持て」と訓を垂れるのは簡単だが、したいことをすることは実はとてもきついことなのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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