自販機は便利である。ここまで生活に溶け込んでしまった現在、ある日突然一斉撤去されたら不自由このうえない。あればありがたいではなく、無ければ困る存在になってしまった。だが、罪過もある。デリカシーに乏しい画一的なデザイン。一隅に数台が居並ぶと街の景観を著しく損ねる。それに、硬貨とモノが交換される動作は、いかにもワンパターンで無機的だ。
デザインに見所があり、景観の邪魔にならず、親しみやすく機械動作してくれるなら大目に見てもいい。そんな自販機に、つい最近出合った。屋外ではなく店内に設置された、かつての機械の良さを残す一台。久々に機械のかいがいしさに感応した。あのガチャガチャに似て、人と機械がフレンドリーだった頃の名残をとどめている。使い方がすぐに呑み込めない。硬貨投入から商品を受け取るまで少々時間を要したが、なかなか味のある機械だった。
その自販機はピーナツやオリーブなど、ワインのおつまみ缶専用である。高さ6.5センチ、直径5センチほどのごく小さな缶だ。この店ではワインの自販機もあって、好きなだけ量り売りしてくれる。一本買うには手が届かない高級ワインをグラス半分とか4分の1の量で味見できる。ワインを試飲する客はおつまみも欲しくなり、この機械に向かう。まず左から百円硬貨を一枚、右からもう一枚を同時に投入する。硬貨を入れたら、おもむろにアナログっぽいダイヤルを回す。軽く回すだけでは反応しない。しっかりと回し切るとピーナツの缶がガーンと落ちてくる。センサーなど付いていないから、動作はぎこちない。
自動販売機はモノを売る。モノでなければ、切符のような価値を売る。いずれにせよ、販売装置である。では、自動とは何か? ここが解釈の岐路になる。自動だからと言って、何から何まで機械がやってくれるわけではない。この機械の場合、縦割りに商品が分類されていて、本体をぐるっと回して欲しい商品を正面に持ってこなければならない。コインを入れ、ダイヤルを回し、落ちてきた缶を身をかがめて取り出さねばならない。機械がやっているのは硬貨を確認して缶を落とすだけである。それでも、これは自販機だ。ちなみに、英語ではわざわざ自動などとは言わない。単に“vending machine”(販売機)だ。自動とは、機械の動作のことではなく、無人という意味なのである。
自販機の第一号機には諸説ある。『自動販売機の文化史』(鷹巣力著)によると、2000年前の古代エジプトに原型があったという。アレキサンドリアの神殿内に取り付けられた聖水自販機がそれだ。上部の口から装置の中に硬貨を入れると受け皿に落ちる。重みで受け皿が傾きテコが作動し、水の注ぎ口のふたが開いて聖水が出てくる仕掛けである。起源を近代に求めるなら、元祖は英国の切手・収入印紙自販機(1857年)とされる。これは世界初の特許自販機だが、実用に供されたかどうかは不明。
前掲書は2003年に書かれたが、その当時も現在もわが国の自販機の普及台数はおおむね500万台をキープしている。自販機利用人口を1億人とすれば、20人に一台の割合。日本全国至る所に備わっていて不思議はない。むしろ、自販機のない場所を探すほうが難しい。飛行機内では見たことがない。無人島や刑務所にもないだろう。他にない場所はどこだろう……と想像し、皇居が思い浮かんだが、天皇皇后両陛下が利用しているイメージはまったく湧かない。「ない!」と結論を出す前に、調べてみた。なんと皇居内に自販機があるのだ。宮内庁の食堂の牛乳の自販機がそれ。牛乳は御料牧場製で、お値段は一瓶60円という格安である。一般人はよほどのことがないかぎり出入りできないから、まず賞味機会には恵まれない。
無機的な文明装置としてではなく、プリミティブな文化的機械としての自販機。モノを手にするまでの過程がアナログ的で、動作が少々不器用。そんな一本気な自販機が街中ではなく屋内で待ち受けているのなら、拒絶する理由はない。