自然を切り取り縮図化して再生すれば街や庭園や諸々の造形物になる。創作の根底には自然に学び模倣する精神がありそうだ。一見非自然的に見える作品であっても、じっくりと鑑賞すればどこかに自然の形状や摂理が潜んでいることに気づく。刀剣にも土器にも、あるいは幕の内弁当にすら、自然を感知する時がある。
サグラダファミリアも自然からのインスピレーションだという。アントニ・ガウディは、「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない。自然の中にこそ最高の形が存在しているではないか」と信念を語っている。
アートという創作に携わる人たちは、程度の差こそあれ、自然に対して畏敬の念を抱く。そういう念がぼくたちの目に映ることがある。同時に、自然への対抗意識も見え隠れする。慎み深く敬虔になることと負けず嫌いが相反的に創作意欲を支えている。アートは勝負魂と無縁ではないと想像すると愉快だ。
超一流の芸術家や工芸家らのきめ細やかさと凝りようにはいつも驚嘆する。自然を師匠として崇めながらも、師匠を追い越して暗黙知に磨きをかけて恩返しをしようとする精神性を窺い知る。これは人工知能(AI)と人間が対置する図に似ている。人間から得た教師データを頻繁かつ大量に反芻し、挙句の果ては自らディープラーニングしてしまう人工知能。アーティストは自然に対して、人工知能と同じことをやってのけようとしているのかもしれない。
プラトンによれば、線には長さはあるが、太さも厚みもない。紙に引いた線はぼくの目に見えるが、それは真の線ではない。線は観念的な別次元である〈イデア界〉にしか存在しない。線を引いているのは、イデア界とは異なる現実世界に生きる人間の苦肉の策、もしくは方便にすぎない。点も同様である。点には位置はあるが、長さも太さも厚みもない。要するに、線も点もイデア的には見えざるもの。見えないものによって長さと位置を示す、ゆえに観念的なのである。
スーパーリアリズムのイラストを見て、「これなら写真でいいのではないか」と言った人がいる。そうではない。スーパーリアリズムに線を描き加えることはできるが、写真で線に見えているのは実は線ではない。写真の被写体は自然や都市や人や道具などであり、これらの被写体にふちはあっても、線はないのだ。もし線が見えたのなら、それはすでに手を施された線らしきものであって、正真正銘の線ではない。
レオナルド・ダ・ヴィンチも自然界に線はないと考えた。そして、〈スフマート〉というぼかしの描写技法を編み出したことはよく知られている。自然界の山や海がそうであるように、色彩の層を上塗りしてグラデーション効果を表現する。輪郭を示すのに、線を引かず、形状を認識させる工夫である。
線を引く画材をライナーと言う。以前、ライナーで輪郭を象らずに、いきなり絵具で面を描いたことがある。腕前の問題もあるが、ぼかしと言うよりもぼんやりした一枚になってしまった。ボローニャのホテルに滞在した折りに描いたロビーの絵。捨てずに記念に取ってある。