なぜ情報をファイリングするのか。ファイルを雑然とさせておくよりも、振り分けるほうが便利だと心得ているからだ。しかし、分ければ分けるほど、個々のファイルから必要な情報を取り出して統合するのには手間がかかる。ファイルや情報群の個々には相容れない価値が存在するが、ファイルを多元化してしまうと便利の代償として機会損失も発生する。同種ばかりを集める分類だけでは統合したことにはならない。なぜなら、清濁併せ呑んで新しい気づきを得るからこその統合だからである。同種ではなく、異種情報の統合にこそ意味がある。
同じ功罪相半ばするなら、不便を受け入れて機会を膨らますべきだと考え、知の一元化を実践してきた。一元化とは、一見無関係でばらばらになっているものを一まとめにしておくことである。脳はファイルらしきものに依存せず、記憶の断片をすべて一元化している。それと同じような機能を日々の知的生産でやってみる。一元化するだけなら、EvernoteやDropboxのような共有フォルダーを活用すればいい。しかし、この種の便利なツールも情報やアイデアを勝手に統合してくれはしない。ごった煮状態のような一元化が意味を持つまでには時間はかかるが、やがてそれが統合につながるからである。
そこで、一冊のアナログノートの出番だ。1ページに1情報を記録する。ページには「一言化」したインデックスを付けておく。一元化に一言化は欠かせない。他人から聞いた話、本から引用した一文・一節、メモや気づいたアイデアもすべて一冊に一元化する。こうしてページが埋まっていく。時折りページを繰り記憶を新たにする。裏面にメモを書き加えて更新する。ファイリングされていないから、脈絡なくあちこちのページへジャンプする。一見、時代遅れの不器用なやり方のようだが、脳の働きのダイナミズムに限りなく近い知の作業をノート上で可視化できるのだ。
このノートを〈脳図〉と名付けている。脳の出張所となる、知の一元化の作業場である。とにかく情報をあちこちに置かないようにする。すべての知りえた情報、アイデア、考えごとをこの一冊のノートに集めておく。当然カテゴリーをまたぐ。雑然としても気にしない。ファイリングしないことが一元化の絶対条件なのだから。
ノート習慣の日々。ノートは書きっ放しではほとんど意味がない。ページをめくって、複数ページに書かれた内容をランダムに攪拌する。これを繰り返しているうちに、脳が動き知の磁場が変わってくる。過去と現在の自分が出合うような感覚が生まれてくる。ノートに書く文章は未来の自分へのメッセージである。固有名詞も使って具体的に描写しておけば、その時々の気づきや見え方が彷彿とする。一年365日、見るもの考えることは同じでも、同じ感じ方の日はない。
「引き出しが多い」という言い方があるが、この考え方は陳腐だ。引き出しとは整理されたファイルである。ファイルの多さは過去形の博学の証左であるかもしれないが、統合的な知を約束してくれはしない。引き出しの数もラベルの精度も情報の量も、活用という段になるとかえって重荷になる。引き出しは頻繁に開けなければならない。それなら、最初から引き出しのない一冊のノートに一元化しておけば済む話である。