今日は今日の面倒を見る

昨日と同じ位置に太陽が今日も見える。来る日も来る日も。やむなく「昨日、今日」ということばを使ったが、そんな概念は最初からなかった。やがて、これは一つの周期であると確信して一日を割り出した。すごいのは、この一日が365回やってくれば、これが別の一つの周期になるという発見だ。こうして一年が365日に決められた。天文観察や気候変化などにまつわる人類の経験的科学が、ここに生かされたに違いない。

ところで、この365日を「一の日」から始めて、「二の日」「三の日」(……)「七十七の日」(……)「二百二十二の日」(……)と呼び、「三百六十五の日」を最後の日として、次の日からまた「一の日」として振り出してもよかった。にもかかわらず、365日は12の月に分けられた。春、夏、秋、冬という表現も別途あるのだから、一年4ヵ月でもよさそうなものだ。だが、一年は12に文節された。たまたまそうなったようにも思えるし、疎いぼくが知らない真実があるのかもしれないが、ここに至るまで慣れ親しんでしまったら、必然としか思えない。

ともあれ、一年は12ヵ月であり、その最後の月が12月、古風に言えば「師走」である。去年の師走に、「そのうちそのうちといいながら 一年がたってしまいました」という訓話を紹介した。今年も暮れを迎えて、この素朴でクールな言い回しがチクリと怠慢に釘を刺す。いったいいつになったら、何年経ったら、百八煩悩を祓う必要もなく、ひたすら純粋な音としての除夜の鐘に共鳴できるのか。何が何でもその時その場でやり遂げたこともある。その一方で、明日でいいか来週でいいかと先延ばしして年を越す課題も少なくない。いくつになっても、学習はむずかしい。


いつ覚えたのか定かではないが、「明日がどうなるかは、今日はわからない」や「今日の一日は明日の二日に相当する」などの箴言は身に染み込んでいるはずである。それでもなお、油断も隙もないのが怠け癖だ。目線を今日から逸らせて明日へと向けることから、面倒臭さが始まる。何度も自分に言い聞かせてきたのに、ぼくたちは今を生きていることを忘れてしまう。怠慢は今日の忘却によって芽生え始める。

明日は来るのだろう。だが、自分にやって来るとはかぎらない。明日は当てにならない。その明日へと今日のやり残しを送りつけるのは、今日を粗末に扱うことを意味し、同時に明日に負荷をかけてしまうことにもなる。〈いつか・どこか〉ではなく〈いま・ここ〉であり、〈いま・ここ〉があるからこそ〈いつか・どこか〉も淡い確率としてありうるのだ。まずは、今日の面倒をしっかりと見ることである。

ここまで書いて「ようし」と気合を入れるが、今さら鼓舞するまでもなく重々承知していることではある。年末に襲ってくるこの自責の念を忘れずに、来年の今頃は晴れやかな心身へと再生できているだろうか……。あ、だめだめ! この瞬間、ぼくは一年後のことを語ってしまった! その前に今なのだ。自責の念に苛まれて身震いしたその時点で、即刻自己変革を遂げねばならない。そう、今すぐ。間髪を入れずに。すぐに忘れてしまう「今への視点」。今を凝視することは生やさしいことではない。しかし、未だ見ぬ明日への橋は今日側から架けるしかないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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