自分ではダジャレの一つも作れないくせに、他人のダジャレを小馬鹿にする連中がいる。しかし、ダジャレ人間を侮ることなかれ。ダジャレを吐くには語彙力がいる。語彙力だけではない。音と状況をかぶらせるためには、膨大な情報を脳内検索せねばならない。語彙力と検索力。少なくとも、ダジャレを小馬鹿にしながらダジャレを作れない者よりは、下手なダジャレを矢継ぎ早に繰り出す者のほうが頭はいい。ぼくはそう考える。
呆れるくらい下手で場を凍らせる人もいるが、ダジャレが出てくる気さくな場に居合わせていることを喜ぼうではないか。ぼく自身はジョーク大好き人間だが、ダジャレの熱心な創作者ではない。ただ、他人が当のダジャレに辿り着くまでの発想過程にはすこぶる強い関心がある。たとえば、数年前のコマーシャルで、唐沢寿明がエレベーター内でつぶやいた「君、コート裏」。これが「足の甲と裏」のダジャレ。その箇所に膏薬を貼れというわけである。
スポンサーか広告スタッフの誰かが膏薬を足の甲と裏に貼ったらすっきりした。これはいいということになり、そのままストレートに表現してもよかった。しかし、別のスタッフが「甲と裏」を何度か口ずさんでいるうちに、「コート裏」を見つけた。ここから「コートを裏に着ている」シチュエーション探しが始まる。コートを裏返しに着ている人物が遠くから見えているよりも、突然見えるほうがいい。いろんな候補からエレベーターが選ばれ、ダジャレを生かすシナリオが書かれた……まあ、こんな誕生秘話だろう。当たらずとも遠からずだと思う。
注目してほしいのは、ダジャレ人間は「ことばの音」を追いかけるという点である。無音の漢字を浮かべてもしかたがなく、同音異義語をアタマの中で響かせる必要がある。同音異義語が多いのが日本語の特徴だが、無尽蔵にあるわけではないから無理やり音合わせをこじつける。ここがウケるか寒くなるかの分岐点だ。ダジャレ、ネーミング、「整いました」のなぞかけ、語呂のいい金言などの底辺には同じ発想の構造がある。
昔、結婚式を「かみだのみ」、披露宴を「かねあつめ」、二次会を「かこあばき」とルビを振って紹介したら、ウケたことがある。神、金、過去が「か」で始まる二文字、続く動詞が三文字、合計五文字となって、別にダジャレでも何でもないが、語呂が合う。どこで仕入れたか読んだか覚えていないが、「結婚とは、男のカネと女のカオの交換である」というのがあった。単純だが、なかなかの切れ味だ。
結婚ネタついでにもう一つ関心したのがある。「最近、家庭内で夫婦病が流行の兆しです。症状は、熱は冷めるのですが、咳(籍)だけは残ります」。世間には結婚があり離婚がある。他にどんな「◯婚」があるか。ことばの演習問題にもなりそうだ。実体のない「空婚」、結婚式の日から始まる「苦婚」に「耐婚」。辛いことばかりではない、いつまでも幸せな「甘婚」も「恋婚」もあるだろう。
ところで、ダジャレも含め、ことばを遊ぶユーモアを楽しむ集まりを三ヵ月に一度開亭している。その名も〈知遊亭〉。雅号、あるいは笑号と言うべきか、ぼくは「知遊亭粋眼」を名乗って席主を務めている。昨夜のR-1グランプリを途中から見たが、一度も笑う場面がなかった。あのレベルのピン芸人には負ける気はしない。