自宅の道具箱にカンナが入っているだろうか? 拙宅にはない。ドライバーは使うが、錐に出番はない。炊事場に砥石を備えていた時期もあったが、これも今はない。かつてなじんだ道具の類は大部分が消えた。日曜大工に手を染めないのなら、それで特段困ることはない。
今は寝たきりになってしまったが、父は料理や芸事にも器用な人で、特に大工仕事はプロ並みだった。鉋と鑿を数種類持っていたし、漆喰を練り、鏝板に乗せて鏝で壁を塗っていた。鉋の使い方を教わったことがあるが、引っ掛かってばかりでうまくいかなかった。経験の前に頭で仕切ろうとしたからだろう。
小林秀雄対談集『直観を磨くもの』の中で鉋の話が出てくる。永井龍男との対談のくだり。
小林 (……)かんなのおやじの場合は、頭で考えたって、かんなの方でウンと言わなければ、事ははこばない。(……)長いつきあいというものが、どうしても要るんだな。(……)いい職人というものは、みんな自分のした仕事に、驚いているものなんだ、きっと。
永井 かんなに従うために、年季を入れなければならないという訳ですからね。
頭から入って鉋から入らないと言われれば、まったくその通りである。先に構想を練ったり計画するのが悪いわけではないが、そこばかりに注意が向いてしまうと、肝心の手が動かなくなる。鉋を使ってみればわかるが、頭でコントロールできるものではない。ひたすら手が鉋に従わないといけない。手を従わせる上で頭は邪魔なのである。
インターネットや本でレシピを読んでから、材料を仕入れに行き、買った材料を指示通りに小分けにし、調味料を用意する。鍋かフライパンを取り出して、やっとここで手が本格的に動く。うまくいくわけがない。対象に向かって手が巧妙に動いてくれる保証はない。手は知識の指令を受けることはめったになく、たいていは場数による暗黙知で動く。
頭と手と鉋の関係は、ほとんどすべての仕事や習い事の比喩になりうる。明日某所で講演するが、こんな話をしようといくら準備しても、場に応じた喋りがどうなるかはやってみないとわからない。鉋ほど扱いは難しくないが、語りを対象に向ける加減は微妙だとつくづく思う。