編集が行き届いた情報誌では、掲載写真に必ず一行か二行の説明文が付いている。この説明文のことを「キャプション」という。キャプションのない写真が並ぶ誌面は落ち着かない。「ここスペースが空いたね。写真でも入れておくか」とつぶやきながら、本文とあまり関係なさそうな写真を適当に置いたに違いない。
『情報誌の編集』という研修では、写真とキャプションがワンセットであることを強調する。写真あっての本文記事ではない。記事を書いて、しかる後に写真やイラストなどのビジュアル素材を選ぶのである。例外的に写真が起点になって記事を書くことがあるが、写真が希少であり、すでにテーマ性を帯びている場合に限る。
写真はそれ単独で目の前にポツンと置かれても、逆にイメージが伝わりにくい。トイレに貼ってありそうなカレンダーの写真を、説明もないままに飽きずに見続けることはありえない。絵なら画家の、写真なら写真家の、その一枚のコンセプトなり、込めた作意をことばとして表現すべきだというのが持論である。
昨日、古本を二冊買って会計しようとしたところ、あと一冊買えば安くなると告げられ、もう一度均一コーナーを渉猟し直し、厚さ3センチ、全ページがモノクロ写真の『街の記憶』という写真集を買い足した。ページ番号すらない。よく見ると、写真の下に5、6ポイントの小さな文字で、“Napoli, Italy 1965”というふうに地名と年号だけが申し訳程度に印刷されている。
ぼくのポリシーに反する本だが、敢えて手に入れることにした。そして、フラッシュカードのようにページを捲り、数百枚もの写真を次から次へと眺めていった。大半がピンと来ない。しかし、ピンと来ないままページを繰り続ける。時折り、実際に旅した街の記憶を甦らせてくれる写真が現れた。しばし凝視する。
一枚の写真に関しては持論は間違っていない。説明のない写真からはエピソードを感じないし、物語性も浮かび上がらない。しかし、これだけの枚数を次から次へと編集した本になると、もはや写真説明に意味がないのではないか。全ページに目を通した後、書かれざる説明文があぶり出されてきた。写真家の『街の記憶』という簡潔なタイトルが、キャプションの役割を果たしている。説明を排除する記憶なのである。