哲学者の言をどんな文脈で捉えて解釈するか……実に悩ましい。
「およそ語りうることについては明晰に語り
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
何かを語りうるとは、その何かそのものについて、また、その何かに関わり派生することについて「ことばにできること」を意味する。明晰というハードルは高いかもしれないが、語りうるのであるから、認識できているかぎり語りうるのは間違いない。建築について、ワインについて、植木について語りうるなら、たしかに語ることができる。そして、論じえないものは語れない、ゆえに黙るしかない。いや、語らないのがマナーか。
言い表わせるというのは大したことなのである。言い表わせないもどかしさを体験すればするほど、言い表わせることが奇跡のように思えてくる。
「問題をそつなく表現できれば、問題は半ば解決されたも同然」
チャールズ・ケタリング(1876-1958)
ケタリングは多彩な職業をこなしていたが、発明家としてよく知られている。ところで、問題が解決しづらい原因の一つに、いったい問題が何であるのかを簡潔に言い表わせないことがある。課題と言い換えてもいいが、課題の表現が拙いと解決すべきことが明快にならないからだ。
ケタリングで記憶に強く残っているのが、次のことばである。
「創造は思考と素材の融合である。よく考えれば素材は少なくて済む」
素材とは情報のことである。一般的に情報は少ないよりも多いほうがいいと思われている。多いほうがいいという前提ゆえに、ひとまず情報を集める。知っていることもあるだろうが、敢えて調査によって知らない情報を得ようとする。創造、すなわち新しいアイデアにとって情報は欠かせないが、情報が多すぎると自力で考えようとしなくなると、ケタリングは言っているのだ。
考えないから情報が必要になる。情報を集めると、情報の分類や組み合わせによって、何事かが創造されたような気になる。しかし、思考の出番がなければ、情報が語っただけにすぎない。それでは創造の粋に達していない。情報というものは思考を軸に選び編集するものである。「情報威張ると思考がへっこむ」のである。
「情報が増えれば増えるほど、知力そのものは減ってくる」
(『ドイツ人の知の掟 トクする雑学』)
考えないで手に入れた情報は語りうるものなのだろうか。語ることのできない情報をいくら集めてもバカになるだけかもしれない。それが証拠に、情報を並べ立てる者は、決まってその後に沈黙することになる。