他人のしていることははっきり認知できないが、自分が日々していることはたいてい自覚できる。朝起きてトイレに行くこと、朝食を取って出掛けること、買い物をすること、電車に乗ること……。していることはできることでもある。自分にできることはだいたいわかっている。
ところが、他人と程度の比較をしてみると、できることは変容してくる。歌をうたうことができる、絵を描くことができる、走ることができるというようなことに程度が入ってくると、誰かは自分よりももっと上手にできるため、自分のできることなどはたかが知れている、いや、できないに等しいように思えてくる。
また、逆に誰もが苦もなくできてしまうと、もはやそれはできることではなく、単にしていることに過ぎないように思えてくる。朝起きること、トイレに行くこと、朝食を取って出掛けること、買い物すること、電車に乗ることなどは平凡な行為であって、できるなどと威張るのは滑稽である。
ずいぶん前なので本で読んだか誰かから聞いたかのか忘れたが、記憶に残っている話がある。小学校低学年の教室で先生が子どもらに特技を聞いた。ほとんどがたわいもないお遊びのことだったが、一人を除いてみんな何か言った。その一人の男子だけが「ない」と答えた。
後日、体育の時間。先生は逆立ちのやり方を教えた。初めての逆立ち、誰もうまくできなかった。ただ一人、特技がないと答えた生徒だけが軽々と、まるで忍者のようにやってのけ、クラスのみんなをびっくりさせた。
「前に特技を聞いたら何も言わなかったけど、逆立ちすごいじゃないの」と驚く先生に生徒は言った。「うちの家ではみんな逆立ちができるから、すごいだなんて思ったことない」。
子どものいいところを見つけると、ともすれば身内は過大評価してしまう。過大評価は子どもにプレッシャーを与える。他方、身内はわが子を過小評価することもよくある。過小評価は才能の芽を摘み取りかねない。主観的にも客観的にもできることを認識することはやさしくないのである。