Before-Afterの入門企画術

初心者向けの企画研修機会がそこそこある。年間20回はあるだろう。企画には定型がなく、どこを起点に指導するかにいつも頭を悩ませる。企画研修のカリキュラムは過去10年で7回近くバージョンアップしてきた。「アップ」になっていると信じている。

テーマを絞れ、コンセプトを一言で表わせ、企画書は一枚(いや、一行という超手抜きもある)、構成はシンプルに……など、企画の仕事には簡素化ハウツーが多い。そんな悪銭身につかずの心得ではダメ? そんなことはない。むしろ、奥深い仕事だからこそ、そうしなければならぬと思っている。

突き詰めれば、企画が価値をもつかどうかは、目新しさと改革にある。

目新しさ。すなわちテーマもタイミングも旬でなければならない。どこかで誰かがすでにやっていることを企画とは呼ばない。少しくらい模倣があっても大目に見るが、根底にある提案は企画者のオリジナルであるべきだ。

改革。「現状よりもよくなる」という仮説とアクションのシナリオが企画書に書かれていなければならない。その企画を実施すれば、現状の問題が解決するか、しかるべき理想が実現するか、メリットや便益が増えるか――これらのいずれかを証明するものでなければならない。


指導したいことは山ほどある。だが、焦ってはいけない。「その企画を試みたら、現状(=Before)よりもベターな将来(=After)が約束できるか?」と、演習をしている初心者たちに尋ねる。何も変わらない、むしろ悪くなるというのでは話にならない。

Beforeのステージでは現状の短所を分析する(もちろん、よいものはよいと評価せねばならないので長所も分析する)。正確に言うと、分析だけでは不十分で、「内因性」という「短所の指摘と、その短所の主たる原因」を探る。これがうまくいけば、少なくとも「現状はそのままに放置してはならない」という企画の動機が正当化できることになる。

「いま使っている水性ボールペンは書き味が悪い、よくインクがかすれる」などの短所を挙げる。次いで、書き味が悪い原因、インクがかすれる原因を分析する。これらの原因はすべて「その水性ボールペン」に内因するものであること。つまり、紙が原因であったり書き手の癖が原因であってはならない。これでBeforeのゆゆしさがクローズアップできる。

Afterのステージでは短所の修正を提示する。原因の解消である。小幅の修正で済まないのなら、代替策を提案することになる。「紙と書き手を選ばない書き味とインクの長持ち・スムーズさ」がAfterの見せ場。これによって、After-Beforeの差が歴然となり、「After<Before」が証明できることになる。


企画シナリオの基本はこれだけである。企画意図や提案骨子などは後で書けばよろしい。まずは、(1) Beforeに対するAfterの目新しさ、(2) Beforeを改革したAfterは短所が少なく長所が多い、という二点を押さえる。

Beforeの分析から入ると時間がかかったり逆にわかりにくくなったりするのではないかという懸念がある場合は、思い切って理想のAfterを掲げることもある。流れがAfter→Beforeの順になっても、企画のねらいは同じで、両者の歴然とした差を描きAfterBeforeに対する優位性を説く。

えらく大袈裟な話をしてきたようだが、仕事から離れた私生活ではみんなこうしてBefore-Afterを直感的に天秤にかけている。いつも飲んで帰っているが(Before)今日はまっすぐ帰ろう(After)、ソファを中心にリビングをレイアウトしているが(Before)グリーンを主役にしてみてはどうか(After)という具合に、小さくて身近なテーマを拾ってBefore-Afterに習熟してみよう。企画が親しみやすい存在にはなってくれるはずだ。企画とは「たくらむ」。スケッチの数をこなすのが上達への近道である。

ランチタイムの選択肢

できれば弁当持参のほうが迷わないでいいというのがホンネだ。しかし、ランチのふいのお誘いが少なくないため、弁当を食いそびれてしまうことがあった。その弁当を夕食にするというのはちょっと情けないし、この時期だと食中毒すらありえる。というわけで、ランチはほとんど外食である。

同じ店に週に二回も三回も通わない性分なので、オフィス近辺の食事処はだいたい知り尽くしている。時間があれば一駅くらい平気で歩いて行く。目当てがあるわけではなく、新しい店を探すことも多い。店構えと店名とメニューと料金で推理し、当たり外れに一喜一憂するが、ぼくの選ぶ店は当たりが多い。知人友人も認めてくれている。

それにしても、何十年にもわたってランチタイムに少考したり迷ったりしてきたわけだ。出張時にはさっさと決められるのに、地元ではついつい選択の岐路に立って自虐的に迷いたがる傾向がある。

お決まりの店に毎日通い、まったく悩むことなく日替わり定食一本主義のM。誰が何と言おうと、ビッグマックとコーラ以外を口にしなかった、かつての同僚アメリカ人のR。この二人を思い浮かべると、心中複雑だ。彼らの確固たるランチ哲学を羨む一方で、それじゃまるで餌ではないかと皮肉りたくもなる。


どこで何を食すかに迷うのはやむをえない。自分がそれを内心望んでいるからだ。しかし、そうして注文した後に、今度は店側からオプションを突きつけられて、さらに迷ったり不条理な選択肢に首をかしげさせられたりする。

そのランチはセットメニューで、たぶんこの店の定番である。うどん、コロッケと鶏のから揚げ、ポテトサラダ、ライスの組み合わせだ。メニューを見て「これください」で注文完了。と思いきや、それで終わらない。

うどんは「そば」に変更でき、しかも「温」か「冷」を選べると言う。温かいうどんのつもりで頼んだが、冷やしうどん、かけそば、ざるそばという三つの選択肢が増えた。しばし迷って、ざるそばにした。「うどん・温」を「そば・冷」に変えるのは二重の変更で、あまりにも節操のない自分に呆れる。

さらに、「生卵か味付け海苔、どっちにしますか?」と奇妙なことを聞いてくる。

トッピングみたいなものがこの定食にはついてくるのか。まったくの想定外である。そんなものを客に選ばせることはない。両方ともつけたらいいではないか。しかもだ、しらす大根おろし vs 冷奴とか、バニラアイス vs 抹茶アイスなら両者拮抗しているが、生卵と海苔は選択肢としてバランスが悪い。

生卵が苦手なお客さんのためのオプションが味付け海苔? たぶんそうなのだろう。それはともかく、バリエーションやオプションが豊富であることがサービスともかぎらない。こっちは店と品物を選ぶまでに十分に迷ってきているのだ。「顧客の選択をこれ以上ないくらい容易かつわかりやすくしてあげる」というシンプルマーケティングの要諦を思い出した。

今日のランチは迷わずに上うな丼にしよう。少なくとも、温か冷か、生卵か味付け海苔かで迷わされることはなさそうだ。

イタリア紀行2 「青に浮かぶ都市」 

ヴェネツィアⅡ

観光の中心スポットであるサンマルコ広場まではホテルからほんの数分。カフェや散策目当てに何度も足を運べる。それ以外に何か格別の楽しみ方はないだろうか。前泊地のミラノにいる時からこんなふうに45日をどう過ごそうかと構想を練っていた。持参していた『迷宮都市ヴェネツィアを歩く』(陣内秀信著)がインスピレーションを与えてくれた。世界でもっとも美しいと謳われるサンマルコ広場に海側から近づくという一つの提案がとても気に入った。

この本で固有名詞もしっかり覚えたつもりだった。しかし、イタリア語の名称は、宗教人であれ建物であれ地名であれ、「サンタ」と「サン」を冠するものが多い。実際現地に降り立つと、区別もつかなければ、しょっちゅう言い間違いをする始末だった。

にもかかわらず、サン・ジョルジュ・マッジョーレ島だけはしっかり覚えていた。サンマルコ広場からわずか数百メートル沖合いにあるこの島内に同名の教会があり、その鐘楼のテラスからの眺望を見逃してはいけない。

さて、海側から広場へのアプローチはもちろん船しかない。水上バスの3日券は乗り放題で約3000円。これを使って、リド島へ向かい、そこから折り返して広場へ向かう。リド島はヴェネツィアのみならずイタリア全土における有数のリゾートであり、ヴェネチア映画祭の会場として知られている。滞在中、同じルートで二度そこへ行った。もちろん乗船・下船を繰り返して、その他の路線の大半も遊覧し尽くした。

ご当地に諺がある。ヴェネツィア方言で“A tola no se vien veci.”と言い、「食事の間は歳をとらない」という意味だ。「船に乗っている間は歳をとらない」という新しい諺を作ってもよいくらい、青地に浮かぶ街の佇まいに飽きることはない。

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砂漠に揺らぐ蜃気楼を実体験したことはないが、ヴェネツィアの街は幻かのように海面下に沈んだり海面上に浮かんだりを繰り返す。上下しているのは船のほうなのだが……。
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水上バス”ヴァポレット”でサンマルコ広場にアプローチ。空の面積を大きく撮ってみた。するとどうだろう、青いキャンバス上に落ち着いた街の気配が漂ってくる。10月のこの日、晴朗極まる青の競演が見られた。
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サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会から臨むサンマルコ広場。写真外の左右にも街並みはあるのだが、ここに写っているのがヴェネツィアのほぼ全貌。至るところに小さな運河や水路が網の目のように広がっている。

ノウハウと固定観念の紙一重

ノウハウ。いちいち考えなくても、条件反射的に成果を導ける。見覚えのある場面で発揮する熟練の技。無意識的に何事かを成し遂げる力。

固定観念。事にあたって取るべき方法や手段をパターン化する。辿り慣れた常識の絶対視。なじみ親しんできた慣習、法則、かくあらねばならないという強迫観念。

二つの概念は酷似している。ノウハウだと思って身につけたものが、見方を変えれば明日の臨機応変を阻む固定観念であったなどということはよくある。かと言って、固定観念のない赤子のような精神作用だけで高度な仕事をこなすことはできない。何か「定番」と呼ぶに値するノウハウが欠かせない。

困ったものだ。ぼやぼやしたり安住したりしていると、ノウハウはすぐに固定観念に化けてしまう。技を磨いてきたつもりが、気がつけば身動きできぬ状態になっている。


両者の紙一重の違いをどう察知すればよいのか。ぼくは、ノウハウを「型に溺れない型」、固定観念を「型に溺れる型」ととらえている。あるいは、それぞれを「変化に強い型」と「変化に弱い型」と言い換えてもよい。

固定観念は行く手に立ちはだかる内なる壁である。財産であるとかたくなに信じてきたものが壁となって新しい仕事の邪魔をする。地図の読み方は習得した。しかし、地図の縮小率や色分けが変わってしまうと途端に窮してしまう。

ノウハウは行く手を切り開く道具である。手に入れてきた道具を微妙に調整し、時には敢えて陳腐化したものを捨てる勇気である。地図の種類が変わっても自分が置かれた場所が変わっても、習得してきた地図の読み方が生かせる。

ノウハウを固定観念という過去の遺物へと凋落させるのは未練であり執着である。加速化し多様化する時代にあって、ノウハウは短命を余儀なくされる。ノウハウを駆使できる仕事の賞味期限も短い。大胆に修正したり、場合によっては潔くシフトしたりすることが、真にノウハウを生かす道なのだろう。

こうして切磋琢磨され取捨選択された結果、それでもなお残りうるものこそが、普遍的ノウハウの地位を築く。それはもはやノウハウの域を脱して、「知恵」と呼ぶにふさわしい。  

「問題ない」という問題

MONDAINAI(モンダイナイ)。

ローマ字・カタカナのいずれの表記も、いまや堂々たる国際語になったMOTTAINAI(モッタイナイ)と酷似している。だが、モンダイナイは世界の市民権を得るには至らなかった。

1980年頃からアメリカ人、イギリス人、オーストラリア人らと一緒に仕事をしていた。日本企業の海外向けPR担当ディレクターとして英文コピーライターチームを率いていたのである。彼らはみんな親日家であり、日本の企業で生き残ろうと自己アピールをし、自分の文章スタイルに関してはとても頑固であった。

日本語に堪能なライターもいればカタコトしか解せぬ者もいた。しかし、どういうわけか、「ノープロブレム(心配無用)」を「モンダイナイ」と言う傾向があった。これはあくまでも想像だが、彼らは「日本人が問題を水に流したり棚に上げたりするのが得意」ということを知っていて、別に解決していなくても当面問題が見えなければ良しとする習性に波長を合わせていたのではないか。

「モンダイナイ」とつぶやいておけば、とりあえず日本人は安心するだろうという一種の悪知恵であり処世訓だったかもしれない。しかし、彼らを責めることはできない。「腫れ物と問題は三日でひく」という諺があっても不思議でないほど、この国では「問題の自然解消」に期待する。さらに、小学校から慣れ親しんだマルバツ式テストのせいで、当てずっぽうでも50%の正解を得てしまう。問題がまぐれでも解けてしまうと錯覚している。


問題に対する姿勢を見るにつけ、日本人にとって問題解決は厄払いに近いと親日家たちが判断したのも無理はない。問題を水に流すなど、まさに厄払いそっくりだ。問題を棚に上げるように、祈願の札も神棚に奉る。TQCさえやれば問題なんてへっちゃらと思うのは、厄をぜんざいの中に放り込んでみんなで食べてしまうみたいだ。

こうした観察が「モンダイナイ」を生み出した。しかし、彼らは日本語の助詞が苦手である。そのため、三つの文脈すべてにおいて「モンダイナイ」を使ってしまう。正しく言えば、「モンダイナイ」は、(1) 問題(にし)ない、(2) 問題(を見)ない、(3) 問題(は解決して、もうここには)ない、というニュアンスを秘めている。

この用語の使い手の名人はアメリカ人のCだった。

ぼく 「(英文を見せながら)Cさん、これで大丈夫?」
C   「うん、それでモンダイナイ」
ぼく 「もし、誰かが文句をつけてきたら……」
C   「でも、モンダイナイから大丈夫」
ぼく 「ちょっと待ってよ、それでいいの?」
C   「そう、モンダイナイから平気」

と、まあ、会話の中にキーワードがふんだんに織り込まれるのである。これは禅問答ではない。彼は理路整然と受け答えしているのだ。上記の会話にニュアンスを足し算すると、次のようになる。

ぼく 「(英文を見せながら)Cさん、これで大丈夫?」
C   「うん、その文章の問題はすでに解決して、もうここにはない」
ぼく 「もし、誰かが文句をつけてきたら……」
C   「仮に問題があっても、それを見ないから大丈夫」
ぼく 「ちょっと待ってよ、それでいいの?」
C   「そう、問題にしないから平気」

ここまで解釈できない日本人スタッフはみんな「モンダイナイ」の三連発に安堵して、後日責任を負ってしまう。リスク管理に神経を使うぼくだが、それでも二度痛い目に合った。これは容赦できんとばかりに二度目の後に徹底的に詰問した。

Cさん、あれだけ自信をもって大丈夫だと繰り返していたくせに、問題が出たじゃないか! どういうつもりなんだ!?」とぼく。Cは身長190cmの巨体を縮め肩も狭め、小さくかすれた声でつぶやいた。「ごめん。モンダイナイ……つもりだった」。

彼はまだ素直なほうなのだ。彼以上に日本慣れしてくると、「どうしてくれるんだ!?」という怒号に対して、「じゃあ、もう一度モンダイナイようにしてあげよう」とケロリと言ってのける。そして、このときにかぎって英語で”ノープロブレム”と付け足すのだった。

「問題ない」を口癖にしている問題児、水に流し棚に上げて知らんぷりしている社員、あなたの回りにも必ずいる。たぶんそいつにオフィスの着席権を与えてはいけない。

最多質問グランプリ

ざくっと数えてみたら、これまで実施した研修・セミナーは1,500回以上、講演や勉強会を含めると2.000回を超えていた。自慢しているのではない。しかし、ささやかな自信にはなっている。これらの体験から導けるぼくなりのセオリーがあるとすれば、たとえそれが世間の標準と異なっていても、少しは真理の一部を照射しているかもしれないという自信である。

二十代から四十代の人々が抱えているヒューマンスキルの悩みはいろいろだ。悩みと直結するかどうかはわからないが、もっともよく耳にした質問。それは、「どうすれば自分の考えていることをうまく伝えることができるのか?である。

この質問は、ここ20年間ぼくが立ててきた仮説――「二大ヒューマンスキルとは思考とコミュニケーション」――と重なる。コミュニケーションにはさまざまな含みがあるが、ここでは「伝える」に重きを置いている。コミュニケーションのラテン語の原義「意味の共有化」(考えていることを他人にもわかってもらうこと)に近い。

よく考えよく伝える。多くの人がこの壁にぶつかっており、なかなか突破口を見つけるに至っていないのである。どうすればいいか? どうしてあげればいいか?

結論から言えば、一生かかっても突破口は見つからない。思考とコミュニケーションに到達点や終着駅などないからである。「昨年よりうまくなった」とか「前回のプレゼンテーション時よりはまし」という実感は持てるだろう。しかし、考えていることを消化不良のまま発話したり、核心部分の言い残しがあったり、適切な表現が見つからないまま思いと裏腹な伝え方をしてしまったり……こんなふうに切歯扼腕するのは常である。いま、勢い余って「せっしやくわん」などという難解な四字熟語を使ったが、あまり適切な伝え方ではないとつくづく思う。


ともあれ、最高頻度の質問に対して「突破口はない」とは不親切極まりない。そこで、「少しでもうまくなりたい」と言い換えてヒントを示したい。

思考という主観的メッセージをいきなり伝達という客観的表現に変換しようとするから、「考えていることをうまく伝えられない」のだ。したがって、考えていることをいきなり他者に伝える前に、まずもっとも身近なコミュニケーション相手である「自分自身」に伝えてみること。そのためには主観的に考えていることを客観的に再構成して、「思考を明快」にせねばならない。

思考の深さ・浅さではない。明快さである。こっちを押さえれば、それに見合った適切な伝達表現が絞られてくる。あまり上等な比喩でないかもしれないが、「プレゼントの中身と包装・手渡し方」の関係に似ている。プレゼント(=思考)も定まっていないのに、包み紙とリボン(=伝達)の選択に迷うからわけがわからなくなる。贈るべきプレゼントさえ明快に決まれば、大きくはずれた趣向を凝らすことはないだろう。

以上がヒントである。しかしソリューションではない。なぜなら、包み紙とリボンの種類、すなわち表現語彙が少なければ悩みは解消しないからだ。 

遠くの記憶と近くの忘却

五十歳前後になってから記憶が衰えたという話をよく聞く。実は、五十歳という数字に特別な根拠があるわけではなく、これは四十歳前後にも、場合によっては三十歳前後にも当てはまる。どうやら「昔に比べて現在の記憶力が低下してきた」という意味らしい。

考えてみれば当たり前のことである。いつの時代も昨日の情報よりも今日の情報のほうが多く、十年前と現在を比較すれば、情報量の出し入れには天文学的な差がある。仮に記憶力や記憶容量が一定であっても、記憶すべき情報だけは増える。どうしても記憶が情報に追いつかない事態に遭遇する。それゆえに、相対的に衰えた気がするわけだ。

何度も繰り返し見聞したことは記憶域の深いところに入る。だから、十年前や二十年前の思い出はしっかりと刻印されている。ところが、昨日や今日接した初めての情報は記憶域の浅瀬にとどまっている。繰り返しがなければ、すぐに揮発してしまう。


「昔のことほどよく覚えていて、最近のことはすぐに忘れてしまう」という現象は、どの世代にも共通するものだ。たとえば、時代が「平成」であるとしっかり認識していても、今年が十九年か二十年かをふと失念する。あるいは、何度も通院した医院の名称と場所は覚えているが、何の具合が悪くて今朝この病院へ来たのかを思い出せない。

仕事柄、同年代の友人知人に比較して記憶力はすぐれていると自負するぼくも、数分前に何かしようとしたことをどうしても思い出せないことがよくある。数時間してから、それが「目薬をさす」ことであったと知る。たいていその時点で目薬の必要性はなくなっている。

対策はただ一つである。新しい事柄に出合ったら、その時点ですぐに記憶域の底辺に刷り込むことだ。思い立ったが吉日、すぐにしっかりと記録し記憶する。できればアクションも同時に起こしておく。後回し・先送りは絶対しない。気に入った新聞記事はその場で切り抜く。後で切り抜こうとサボったら、記事の内容を忘れることはもちろん、切り抜こうと思ったことすら忘れてしまう。

記憶と繰り返しの関係は密接だ。繰り返し、すなわち「習慣形成」こそが末永く精度の高い記憶力を維持する絶対法則である。

ズボンのジッパーの閉め忘れなども習慣形成で防げる。トイレの直後、椅子から立ち上がった直後、歩き始めた直後に反射的にベルトのバックルに手をあてがう癖をつける。そしてジッパーのつまみに接するよう小指の先を伸ばす。そこにつまみがあればオーケー、つまみがなければヤバい。他人には、ジッパーをチェックしているようには見えないから好都合である。

但し、言うまでもないことだが、ベルトに手をあてがうのを忘れてしまってはならない。腹部のあたりに手をあてがうことは忘れなかったが、そこにあるべきベルトがなかったというのは論外である。 

プロの醜い泣き言

この企業名は明かせないが、トップが知ったら中間管理職の実態に絶望するだろう。

もちろん重体をみすみす放置しようと思ったわけではない。研修所感というものが講師には義務づけられているので、絶望に近いコメントをしたためはした。しかし、悪いことをいくら嘆いてもしかたがないというスタンスに立つぼくは、問題分析よりも対策を中心にまとめて報告した。したがって、現状のまずい部分は軽く読み飛ばされたかもしれない。いずれにせよ、この種の所感がトップまで届く可能性がないのもこの企業の特徴である。

研修で学びながら、ほぼ全員がネガティブな姿勢を崩さない。これだけ見事な悲観的空気を漂わせようとしたら、普段から習慣的にマイナス思考をしておかねば無理である。上司に何を提案しても通らず、顧客からも厳しく反応される。どうしようもない現実……その現実を前にしての己の無力……演習時も休憩時も嘆き節の泣き言を漏らす。

こうして生涯、定年を迎えるまで、泣く泣く仕事をし続けるのだろう。傍らから見ていると、いくらでもアイデアの出る業界であり、どうにでもおもしろくできる仕事に思えるのだが、渦中の人々にはそれがわからない。


休憩時間。一人の、いくらかでも他の人よりも憂慮の度合いが薄そうな人が質問してきたので、現実的なアドバイスをした。ぼくの話にうなずきながらも、「そうはおっしゃっても」と前置きして、厳しい現実を語り始めた。その厳しさ、ぼくにとっては何がそんなに厳しいのか理解できない。

「はは~ん、なるほど」と気がついた。この集団は、愚痴・不満・弱音・泣き言が趣味のサークルであり、挨拶代わりの共通言語にしているのである。プロとしての自覚はある。にもかかわらず動かぬ現実に直面する辛い思いの日々。「サークルの一員でもなく、オレたちと言語を異にし、研修という瞬間の窓から覗くあんたにはわかるまい」とでも言いたげなのだ。

泣き言を初対面の人間に平気でぶつけてくるこの神経はどうだ。仕事というものは、「大変だ」と嘆くほどに実際は大変ではなく、「簡単だ」と片付けるほどには簡単ではない。だが、これだけは言っておこう。楽しまずして何が仕事か、どんだけ~のプロか!? 極まったら、泣くのではなく、笑うのだ。プロが泣き言を垂れるときはギャグでなければならない。

辛い、疲れた、利益が出ない、アイデアに困る、外部環境が悪すぎる、今日の受講生はレベルが低い……たしかにぼくも泣き言とは無縁ではない。だが、ぼくがこのようにぶつくさ言う時はつねにギャグなのである(笑)。 

イタリア紀行1 「セレニッシマの不便」

ヴェネツィアⅠ

ネットからダウンロードした地図のコピーを穴が開くほど見、住所のメモと案内表示を何度確認しても、目指すホテルに辿りつける希望は湧いてこない。これが噂のヴェネツィアの迷路か。ヴァポレットという水上バスで運河を通り抜け、サンマルコ広場手前の船着き場ヴァッラレッソから徒歩にしてわずか56分の所。目と鼻の先のように思えて、これが容易ではない。何人もの通行人に尋ねてようやくホテルに着いた。

着いた場所は本館。宿泊するのは別館のほうらしい。本館からは中国人系のボーイが連れて行ってくれた。小柄な彼は大きくて重い旅行カバンを二つ、ひょいと左右の手に一つずつ持つと、一度も地面に置くことなく軽やかに歩を進めた。遠く感じたが、たぶん5分ほどだっただろう。何度も小運河をまたぐ階段を上り下りし、運河沿いの小道を通り抜ける。いわゆるバリアフリーな箇所などどこにもない。やっぱり迷路だ。

二度目のヴェネツィアは5年半ぶりだ。和辻哲郎は『イタリア古寺巡礼』の末尾で、「ヴェネチアには色彩がある」と印象を語っている。1927年にしたためた手紙を編集した紀行文だ。「色彩がある」の解釈は難解だが、”セレニッシマ(Serenissima)”という愛称をもつヴェネツィアの色彩は一にも二にも青だろう。このことばは“sereno”の最上級で「晴朗きわまる」を意味する。

多くのツアー観光客はここか島外のメストレで一泊する。たしかに観光だけならば半日あれば名所を廻れる。それならば前回体験済みだ。同じホテルで四泊すれば、ほんの少しくらい「住民」の視点に立ってセレニッシマを満喫できるかも、と目論んだ。

ここには自動車は一台もない。自動車どころかハイテクめいたものが一切見当たらない。いま「満喫」と言ってみたが、実はそれは、不便と共存する「快適」のことなのである。

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橋の上から俯瞰した典型的な運河の風景。近代化した船以外は、百年どころか16世紀の頃から何も変わっていないのだろう。
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空の色や光の加減、眺める角度によって運河の青は微妙に移ろう。何度見ても同じ運河なのだが、印象はそのつど変わるのだ。
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サンマルコ広場前のラグーナ(潟)は、高潮になると1メートル以上水面が上昇して広場はすっかり水浸しになる。
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黄昏時? この写真を見れば誰しもそう思う。実は、早朝のサンマルコ広場である。夜明けに浮かび上がるシルエットも格別だ。

コンセプトを伝える

先程出張先のホテルにチェックインした。メールのやりとりの必要があったので、フロントでインターネット用のケーブルが部屋にあるのかどうかを尋ねた。

「あいにくまだ準備ができておりません。モデムの貸し出しになります」とフロントマン。この意味が飲み込めなかった。ぼくの傾聴力に問題あり? そうは思いたくない。

部屋のメークアップとケーブルの有無の話がぼくのアタマで混線してしまっている。なんだかよくわからないまま、部屋にエスコートしてくれた女性スタッフに再度確認して事の次第がわかった。

当ホテルでは、全館各部屋にインターネットのケーブルを設置していない、ゆえにモデムを300円で貸し出す、ということだ。ならば、「まだ準備ができていない」は「当面のところ」というニュアンスを匂わすため、不適切な表現である。この一件、単なるコミュニケーションの巧拙だけに終わる話ではない。


理屈っぽい言い草で恐縮だが、メッセージの前にコンセプトがしっかりと定まっていないのである。部屋のケーブルの有無に対して、ホテルの設備計画面から応答するから伝わらないのだ。言葉遣いや表現の問題ではない。

これに先立って、タクシーの中でダイエットクリニックのリーフレットを見つけた。持ち帰ってきて、いま手元にある。「痩せたくない人は見ないで下さい」という見出し。これにケチをつける気はない。「真に痩せたい人」をターゲットにした一直線のコンセプトだ。だから、こういう言い回しになるのだろう。

ところが、他方で、「痩せたくない人もお読みください」という見出しにする手もあることに気づく。この表現にするならば、コンセプトがまったく違うものになっているはず。「痩せたくない人」には、「すでに痩せすぎていて、これ以上痩せたくない人」と、「ある種の思い(哲学?)があって、痩せたくない人」がいるだろう。この後者の、クリニック側から見れば強情な潜在顧客にも働きかけて損はない。

トマトを使った「トマリコ」というスナックが開発されたとして、「トマトの嫌いな人は食べないで下さい」とするか、「トマトの嫌いな人も食べてみて下さい」とするかは、コミュニケーションの良し悪しではなく、顧客心理へのコンセプトをどう定めるかによって決まる。

コンセプト(concept)は、「考える・はらむ」という“conceive”という動詞から派生した言葉だ。それは、メッセージを送る側の「思い」を凝縮したものにほかならない。