経験の差は優位性とはかぎらない

「経営に口をはさむのは10年早い!」と、社長にたしなめられている社員がいた。よく聞いてみると、想像ではなく経験でものを言えということらしい。

ある対象を理解するうえで、対象の中に入れという「同化思想」や「経験主義」が幅をきかせる。それはそれで一目を置くに値する。しかし、決して唯一の理解方法ではない。「古代ローマ人を理解するために、古代ローマ人でなければならない」のならば、歴史など存在しなくなる。

もしかすると間違った引用をしているかもしれないが、20014月のノートに「シーザーを理解するために、シーザーである必要はない」というメモがあって、引用がマックス・ウェーバーの『理解社会学のカテゴリー』となっている。この本は学生時代に読んでいる。なぜ、7年前のノートに書いているのか思い出せない。

さて、このことば、裏返せば、「シーザーでなくても、シーザーを理解することができる」というメッセージだ。冒頭のように社員を叱るのは、「経営者でなくては、経営を理解することができない。もっと経営の勉強してから話せ」と言っているに等しい。


経験は「餅は餅屋」というプロフェッショナルをつくる。だとしても、そのプロ自身が未経験の周辺世界をどう理解すればいいのだろう。想像力を使わなければどうにもならないはずではないか。

社員を理解するためにもう一度社員に逆戻りした経営者は、ぼくの知り合いにはいない。社員に逆戻りしなくても社員の気持が理解できるという自信があるからだろう。なかなか虫のいい話である。それならば、「経営者でなくても、経営を理解することができる」という意見も受け入れるべきではないか。

経験の差をかざしていれば安泰。だから、上に立てば立つほど、経験至上主義に走ってしまう。何十年の経験、何百年の歴史を一気に縮めてしまう可能性が想像力にあることも認めておきたい。そのほうがもっと広い視野で経営を理解できるだろう。

コマーシャルを楽しみ、学び、遊ぶ

「長持ちするやつか、遠くまで飛ぶやつか、今夜はどっちのキンチョールがええんや?」
「ヤラシイわ?」
「ヤラシイやろ」

「ヤラシイわ?」「ヤラシイやろ」が、ぼくの周囲の会話の中でポンポン飛び出す。簡単なやりとりなのだが、こんな絶妙な居直りの逃げ道があったのかと、つい感心してしまう。「すごいね?」に対して「すごいやろ」と自画自賛するほうが「ヤラシイ」。「ヤラシイやろ」と自嘲気味に居直るほうが、実は「ヤラシクない」ところがおもしろい。

ただ、コマーシャルほど好き嫌いの激しいものはなくて、ぼくがおもしろいと思うほどおもしろいと思っていない人も多々いる。そもそもインパクトの強いコマーシャルであるためには、賛否両論という要素が不可欠である。


印象に残っている78年前のコマーシャルがある。「カラシレンコン、イガラシレイコ」に覚えがあるだろうか? 「和イスキー 膳」をたしなむ真田広之が、あてのカラシレンコンから、語感の類似している昔の彼女「イガラシレイコ」を思い出す。赤いドレスに身を包んだ、プライドの強い高慢ちきなイガラシレイコ。「どう似合う?」と腰に手をあてがい、気取るイガラシ。そのポーズを見て、真田は、間髪を入れず無表情に言う。「全然(=膳膳)」。

その瞬間、つかえていたものがスゥーと下りていく快感。フラれた男性諸君の「ざまあみろ!」という声がテレビの中から響いてくるようだった。

何十か何百かに一つの確率かもしれないが、秀逸なコマーシャルは仕事に役立つし、コミュニケーションの凝縮性に学ぶことも多い。なにしろ1秒当りもっとも高価な無料の教材なのだから、あまりケチをつけるべきではない。来週もまた、誰かが喉の奥から「ヤラシイやろ」と絞り出して笑わせてくれるだろう。誰かの一人がぼくである可能性も否定できない。 

論より証拠???

諺は嫌いなほうではない。諺を自分なりに解釈するのが発想のトレーニングに役立つようなので、時々立ち止まってみる。諺の多くは反面教師でもある。「である」になるほどとうなずく一方で、「ではない」にも一理ありと共感する。長年ディベートの指導をしてきたので、そういう見方が習性になっているのかもしれない。

 「論より証拠」が口癖になっている人もいるだろう。ディベートにおいては、論の質や流れを評価できないジャッジがついつい証拠びいきになってしまう。証拠の中身をしっかりと見てくれればまだしも、証拠の量で議論の勝者を決めてしまう(ちなみに、ディベートでは証拠のことをエビデンス=evidenceと呼ぶ)。

 証拠を並べ立てた議論はおもしろくない。まるで調査報告を聞かされているみたいだ。証拠は必要。しかし、5分の主張のうち4分が証拠の引用というひどい立論スピーチは退屈である。証拠至上主義になると、論理思考、臨機応変の表現、理由づけがおろそかになる。

 「証拠より論」という逆説を100パーセント持ち上げる勇気はないが、「論も証拠も」という新説があってもよい。証拠なき論を「空論」と批判するのなら、論なき証拠に「空知」という皮肉を献上しようではないか。  少しニュアンスは違うが、「論より証拠」が「花より団子」に通じるように感じる。いずれも実利優先の命題だ。最近ディベートの審査がおもしろくなくなってきたのは、まずいお団子をたらふく食べさせられるばかりで、議論に花がないからだろう。

気分的にはディベート指導の一線を退いたつもりではあるが、個性的な花が咲き競うようなディベートを愛でてみたい―内心、そう思っている。

三日坊主が試される一冊のアイデアノート

三日坊主をどう評価すればいいだろうか? 常識的には、三日坊主は飽き性の別名である。「あいつは何をやっても、三日坊主だからな」というコメントが褒め言葉とは思えない。三日坊主は「石の上にも三年坊主」に比べて、365分のの忍耐力というのが相場だろう。

しかし、そういう対比的な見方をするならば、即席焼きそばが出来上がる3分間に苛立つ人間よりは忍耐強いと言える。「よくぞ三日も続けたもんだ」と褒めてあげてもいいし、「マンネリズムに陥らない君の見切り力はすばらしい」と感嘆してあげてもいい。

十年は経つだろうか、昨年閉塾した私塾『談論風発塾』で、日記を書き込める文庫本サイズの手帳を塾生約20名に配ったことがある。月スタートで誰が年末まで続けられるかという、三日坊主フィルター実験だ。「零日坊主」という厚かましい鈍感君もいたが、おおよそ半数が三日坊主から一週間坊主に終わった。二、三名が3月頃まで頑張り、最終的には一名だけが6月まで続いたように記憶している。

断続的にではあるが、二十代後半から約30年間、アイデアや気づきや観察内容をノートにしてきた。ことノートに関するかぎり、三日坊主は何の価値も生まない。それなら零日坊主のほうがうんとましだ。なぜか? 三日間をムダにし、手帳の残りページを破棄し、飽き性な自分への嫌悪感が残るからである。

ノートという習慣が形成できない人へアドバイスしておこう。

1.ノートを脳の外部メモリと考える
このメモリなら、紛失しないかぎり記憶は消えない。ノートとは脳図のうと」なのである。脳の出先機関だ。日々の記録が、単なる足し算ではなく、シナプス回路のように変幻自在に文脈をつくってくれる。

2.学習量と記憶率と活用度を損得で考える
学んだことを忘れたら損、覚えたことを使わなかったら損という、いやらしいそろばん勘定。アイデア創造のためには、たくさんの情報や知識を手元に置いておく。月並みだが、発想技法に共通するセオリーである。 

聞き上手の話

話すことに関しては達者だと自負する二人。いつもわれもわれもと喋るので、口論が絶えない。二人は猛省して、『聞き上手』に関する本を読んだ。皮肉なことに同じ書物だった。

後日、精読した二人が再会した。お互い睨みあって一言も発しない。延々と時間が過ぎ、日が暮れた。それでも二人は口を開けようとしなかった。二人が読んだ本にはこう書いてあった。

「相手を尊重して、先に喋ってもらうこと。それが聞き上手の第一歩だ」


聞き上手というのは、質問上手であり、傾聴力にすぐれているということ。寡黙だけれど聞き上手という人にはあまり出会ったことがない。

「議論は知識のやりとり、口論は無知のやりとり」。これは、あるアメリカ人コメディアンのことばだ。以前の二人は無知のくせに喋るから口論になっていたのだろう。無知のまま聞き上手に変身することなどできない。知識をバックボーンにして少々のユーモアで味付けすれば、口論は議論へと止揚する。

人間誰しもわがままに自分に酔う。この習性をよく理解すれば、マーケティングセオリーにも応用がきく。

顧客はエゴイストである。

顧客はナルシストである。 

コンセプトをアイディエーションへと結実させる

「アイディエーターって何ですか?」 本ブログのぼくのプロフィールを見て、こう尋ねてきた人がいる。実は、名刺には、代表取締役、企画コンサルタント、ワークショップレクチャラーと三種類の肩書きを印刷している。その人は、名刺とブログ上での肩書きの違いに気づいたようだ。この名刺はまだ千枚以上残っているので、もったいないの精神であと二年は使うつもり。

さて、30年近く企画の仕事をしてきた。また、企画発想をテーマにしたセミナーや研修を20年近く数百回させてもらっている。コンセプト(concept) またはコンセプション(conception) は企画がらみで頻出する用語だが、アイディエーション(ideation)ということばはあまり見聞きすることがないだろう。いずれも概念(化)や観念(化)という意味を共有している。調べていただければわかるが、英和辞書では厳密に峻別した定義にはなっていない。

これまで、コンセプトを企画の拡散段階の働き、アイディエーションを企画の収束段階の働きとして勝手に位置づけてきた。「何かいいコンセプトはないか?」という場合は発想を広げている。しかし、「見つかったコンセプトをどこに落とし込めばいいのか?」となると、形にすることが課題になっている。コンセプターという和製英語が気に入らないので、これまで企画コンサルタントと自称してきた。だが、相談に乗り、課題を自社に持ち帰って熟考して提案をするという一連のコンサルティングは、こと企画に関しては賞味期限が切れてしまうと判断した。


古代ローマの剣闘士グラディエーター(gladiator) をふと思い出し、英語のネイティブスタッフに「アイディエーションということばがあるのだから、アイディエーター(ideator) は絶対OKだね?」と問えば、直感的に彼は「ノープロブラム」と言い、念のために調べてくれた。まだまだニッチなことばだが、使用事例もあることがわかった。それなら、コンサルティングからアイディエーティングへと自分のサービスを変えてみようと思い立った次第。

アイディエーターは、現場で課題と闘う人である。斬れば血の出るような実践的アイデアを、問われたその場で一番搾りして提供する。「この企画どう思います?」に対して、複数オプションを即答して、有力アイデアを即決する。とても大変だが、真剣勝負である。

知の剣闘士よろしくアイディエーターという肩書きがとても気に入っているのだが、即答即決したらお金にならないのではないかという不安が横切る。その仕組みは、これからコンセプトをアイディエーションに落とし込んで考えていかねばならない。「お願い、誰か相談に乗って!」と泣き言をこぼすわけにはいかない。

空気の読めない「お邪魔します」

「お仕事中、お邪魔します。私、……」

ドアをトントンと叩く音が聞こえ、「ハイ」と応答したら、ドアが開いて、その営業マンは喋り始めた。よくある切り出し方、よくある口調、よくある服装の立ち居振る舞い。こっちは中断されたくないPC作業の真っ最中だったので、上目づかいで「何か?」とぶっきらぼうに尋ねる。

「突然の訪問者」は冒頭の12分は丸暗記しているので、「ご用件は?」と聞こうが「何か?」と聞こうが、お構いなく話し続ける。「こんなやり方で成果が上がるのだろうか……」――あまり頻繁に飛び込みセールスがやって来て仕事の邪魔をしてくれるので、10年ほど前に『セールスマンの通信簿――うちのオフィスにやってきた50人の話し方・売り方』という本を真剣に書いてみようと思ったくらいだ。


彼らのステレオタイプな文言は次の通り。

 1.「私、このたびこの地域の担当になりましたので、ご挨拶にうかがいました」(地域の担当? 知らない会社の人事異動事情を知ったってしかたがないじゃないか)

 2.「ご多忙だとは存じますが、少しお時間いただけますでしょうか?」(察しの通り忙しいので、パンフを置いていってくれればよろしい)

 3.「私、新入社員研修の一環で、企業訪問させていただいています」(つまらないことさせるね、どこの研修会社?)

 4.「代表者の方は、いらっしゃいますでしょうか?」(あ、代表は出掛けています、と代表のぼく)

彼らに共通する特徴は、社交辞令的でフォーマル過剰、にもかかわらず空っぽのテンションだけが高い。少し興味を示す振りをして話しかけても、カジュアルトークができない。何よりも苛立つのは、用件が後出しであり、やっと用件を言い出したと思ったら、その用件そのものがまったく不明であることだ。

どう好意的に解釈してあげても、新人の飛び込みセールスにプラス面が見えてこない。ガンバリズムの醸成? そうかもしれないが、それは顧客には関係ない。

「私のプロフィール」なるものを置いていった別のセールスマンがいたそうだ。彼が訪ねたのは、どう見たって、資産のない小さな小物のお店である。その店に「資産運用」の話である。そのプロフィールにはこう書かれていた―「先の読める人間を目指しています」。おいおい、そんなことよりも、当面の空気を読める人間になりなさい! 

ゆったりとした時間も食べるスローフード習慣

その時、たしかに時間はゆったりと流れていた。もちろん食事に満足したのは言うまでもない。しかし、時間も至福であった。

20069月の終わりから10月半ばにかけて、フランス、イタリア、スイスを旅した。イタリアでの拠点はミラノ。ある日、北東へ列車で約時間の街、ベルガモへ出掛けてみた。正確に言うと、この街は二つのエリアに分かれている。駅周辺に広がる新市街地のバッサ(Bassa=”低い”という意味)と、中世の面影を残すアルタ(Alta=”高い”という意味)だ。バッサはアルタへ向かうバスから眺めることにし、ケーブルカー駅へと急いだ。ここから標高約336メートルの小高い丘アルタへ。

足早に街を散策する。ランチタイムに地産地消のスローフードを堪能しようと目論んでいるのに、「足早」とは日本人特有の習性か!? ちょっと情けない。何はともあれ、しばらくしてベルガモ名物料理店らしきトラットリアに入る。ハウスワインの赤を頼み、じっくりとメニューから三品。どれも一品千円見当である。

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一品目はお店自慢のご当地チーズの盛り合わせ。なんと78種類が皿に乗っていて驚いた。ベルガモでしか食べられない逸品である。どのチーズを口に入れても、芳醇な風味が鼻に広がり、舌と喉元に滲みていくようだった。

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二品目の前菜は生ハムとサラミの盛り合わせ。これもこの街ならではの一品である。濃い赤身の薄切りは濃厚な猪の肉。猪肉の生ハムは珍しい。脂身のハムは見た目はガツンときそうだが、思いのほか淡泊。

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料理の範疇としてはパスタなので前菜としていただくものである。しかし、この三品目をメインに見立てることにした。餃子のようなラヴィオリの一種。たしかアニョロッティと紹介された記憶がある。挽き肉やチーズなどを詰め込んである。


以上のスローフードにたっぷり2時間。日本では考えられない間延びした時間だ。ちなみに“slow food”はイタリアで造語された英語。イタリア語では“cibo buono, pullito, e giusto”というコンセプトで、「うまくて、安全で、加減のよい食べ物」というニュアンスになるだろうか。

かつてのイタリア料理のように大量の前菜、大量のパスタ、ボリュームたっぷりのメイン料理にデザートとくれば時間がかかるのもわかる。しかし、これもすでに過去の話。一品か二品をじっくりと2時間以上かけて食べるイタリア人カップルやグループが多数派になりつつある。現在、イタリアでもっとも大食なのは日本人ツアー客かもしれない。朝も昼も夜も大食いである。残念ながら、ドカ食いとスローフードは相容れない。大量ゆえに時間がかかってしまうのと、意識的に時間をかけるのとは根本が違うのである。

スローフードは“slow hours”(のろまな時間)であり、ひいてはその一日を“slow day”(ゆっくり曜日)に、さらにはその週を“slow week”(ゆったり週間)に、やがては生き方そのものを“slow life”にしてくれるのだ。

ベルガモの体験以来、ぼくの食習慣は変わっただろうか? 正直なところ、まだまだ道は険しい。でも、少しずつではあるが、毎回の食事に「時間」という名の、極上の一品をゆっくり賞味するよう心掛けるようになった。

牛乳を飲むか、牛乳を配達するか?

もう15年も前の話である。人間ドックで「健康心得ガイド」なるものをもらった(もちろん、そんな古い小冊子はすでに手元にはない)。しっかりと記憶に残っているのが、紹介されていた英国のジョーク。「牛乳を毎日飲んでいる人よりも、牛乳を配達している人のほうが健康である」。

ともすれば運動よりも栄養指向に傾きかけていたぼく自身への警鐘と受け止めた。それにしても、なかなかの命題である。このジョークは「ことばの階層」について、二つのことを教えてくれている。

1.具体性

だれが読んでも、「運動>栄養」という図式を自嘲気味に納得してしまう。もし、階層上位の「運動は栄養よりも健康体をつくる」となっていたら、「ちょっと待てよ」と保留者が続出し、是非論にまで発展しかねない。「環境保全か社会貢献か?」というような四字熟語を用いると、二項対立してしまうのだ。

ある企業では、「環境保全 vs 社会貢献」とご丁寧にも“vs”を入れたため、排中律の激論になってしまった。階層下位の「自然を守る」と「ゴミを拾う」にしておけば、「森へ行って空き缶を集める」という折衷もありえただろう。

2.軸移動

飲料を「配達物」として機敏にとらえたユーモアの味付け。軸をずらされて苦笑する。牛乳は飲料のみにあらず、運ばれるものでもある。牛は草を仕入れ、体内で乳を生産し、その乳を人間が盗み、水増しして売りさばき、瓶に詰め込むという一連の別シナリオが見えてくる。

事物には人間が意図した特性と、意図はしたが忘れかけている特性と、まったく意図していない特性がある。これら三つの特性を冷静に眺めれば発想も豊かになるに違いない。

新しい発想に「異種情報」と「一種情報」

来る620日開催の私塾のテーマは「発想(ひらめき)」。そのテキストの編集中に、先週の『リーダーの仕事術』というセミナー時に出てきたある質問を思い出した。「どうすればひらめくようになるのか?」――質問者の気持ちを汲んであげれば、「アイデアがどんどん出る人間になりたい」ということだろう。難問だが、実は頻度の高い古典的な質問なのである。

数ある発想技法に共通する模範解答は「異種情報の組み合わせ」。ぼくも常々そう感じている。そこで、オウム返しのように、「ジャンルの違う情報どうしを組み合わせると新しいアイデアが生まれますよ」という意味の返答をした。

よくよく考えてみると、とても軽くて無責任な回答だった。意味なく異種情報の組み合わせを繰り返しても、ある日突然アイデアマンになれる保障などない。情報を食材にたとえてみれば、牛肉、玉ねぎ、豆腐、しらたきを入手しても、すき焼に辿り着けないかもしれないし、たとえマグロという一つの素材しか手元になくても、新しい料理のアイデアを生み出せることだってある。

今回のテキストにも異種情報融合の話を書いているし、組み合わせの方法をいくつも紹介している。でも、ちょっと不十分と反省し、「一種情報の複数解釈」と抱き合わせで解説することにした。一つの情報にできるだけ多くの複数価値を見出すこと―実は、こっちのほうが、「どうすればひらめくようになるのか?」という初歩的質問に対しては、より適切で有効な手立てなのだ。