コロナ禍、二年目の春

テレビ番組で誰かが言う。「コロナ禍で自由に行動できずに……」云々。「コロナ禍」が「この中」に聞こえる。当然、「この中」は「コロナ禍」に聞こえる。

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いろんな理由があって桜は散った。「来年に咲くために」というのも理由の一つ。来年のことを言えば鬼が笑うらしいが、いまは鬼は笑わない。ここに鬼はいないから。
さて、来年の干支は、……、すぐには言えない。いつものことで、翌年の干支を知るのはだいたい十二月になってからである。

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昨年に続いて今年も大阪の風物詩、造幣局の桜の通り抜けが中止になった。通り抜けスタートの門へアクセスする要所のあちこちにガードマンがいる。通り過ぎる人達に中止を伝えているのだが、人の列を整理するために立っているように見えなくもない。逆に引き寄せてしまわないか。
近くで仕事をしているから、来客のアテンドも含めてこれまで数回通り抜けた。未体験の知り合いに一度見てみたいと言う人がまずまずいる。一度見ておくのもいいかもしれない。ここの桜は遅咲きなので、どこかで一、二度花見を予習してからここで
復習する感覚になる
見るのは一度で十分だと思う。おそらく「なぜ大勢の人が桜を見るのだろうか」という哲学体験をすることになる。その時、大勢の人に自分は含まれない。哲学とはそういうものだ。

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造幣局の外から見学者のいない通り抜けの現場を窺うことができる。これから満開へと向かう場内桜と場外ですでに青葉になった樹々が重なる。コントラストが鮮やか。しばし佇めば野鳥がさえずる。お礼に凡歌を返す。ことばは通じないのでハミングで。
Mmmmm lalalalalalala hmmmm

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平和な風景。平凡な平日。平坦な仕事。口に出してみれば何ということはないが、何事も平らにならすのは容易ではない。その体験的証人であることはまんざらでもない。

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三年目の春にコロナ禍が収まっていることを切に願う。

何かが変わる兆し

醤油を通常の1.5倍量滲み込ませた満月ポンが売られていた。衝動的に買い、買ったことをしばらく忘れていた。赤ワイン摂取中の今夜にそのことを思い出し、袋を開けて赤ワインのつまみにするという暴挙に出た。時代が変わるとまでは言わないが、何かが変わるような予感がした。

o  m  n  i  b  u  s

2020年の1月まで圧倒的な数の中国人観光客が、超過密状態で大阪ミナミの一帯で店に群れ通りに群れていた。今、ミナミから繁盛店すら姿を消しつつある。その最たる現場を今日目撃した。心斎橋の絶対的な商業一等地で長い間インバウンド景気で繁盛していた大手ドラッグストアが閉店していたのである。数年前からすれば「まさか」の――しかし今となっては「さもありなん」の――この事象は、インバウンド景気の終わりの始まり、いや、終わりの終わりを象徴している。

o  m  n  i  b  u  s

巣ごもり需要をねらってメールやDMやポスティングが増えているような気がする。昨日も一通がポストに入っていた。「いつもご愛顧いただいているあなた様に今だけの特別商品のお知らせ」から始まるDM。「今月はボルドーの厳選金賞赤ワイン10本セットが半額以下!」 今だけ? 今月? いや、昨年の春から毎月2回は来ているぞ。

o  m  n  i  b  u  s

長く商いしている老舗の江戸時代のポスターの絵葉書が、その老舗の末裔の家の壁に貼ってあった。萬小間物所は「よろずこまものどころ」だが、その右に書いてある「鼈甲べっこう□物類」の□が読めない。何だろうと思案していたちょうどその時、玄関が開いて婆さんが出てきた。「あの、べっこうの次は何と読むのですか?」と聞いてみたが、そんな細かいところまで見たことないと言う。昨日の話だ。

気になるので、帰宅してからついさっきまで、馬の部首を調べ、ネットもまさぐり、辞書も引いているが、まだわからない。ともあれ、諦めのいいぼくが気になって調べているのはちょっとした異変である。

o  m  n  i  b  u  s

最近何かが変わる兆しをよく感じる。あまり他人様と会わないから、人以外のものに感覚が開かれているような気がする。もっとも、何が変わるのかはまったくわからないが……。

「わからない」と「わかる」

起業してから今日で33年。「節目ですね」と言われた。何が節目なのかわからない

「創業33周年おめでとうございます。心ばかりの品です」。メッセージも行為もよくわかる

どんな材料でできているのかまったくわからない北欧のグミ。

五七五に七七を足しても俳句が短歌にならないことくらいわかる


タイ料理店にて。何と何と何を注文したのかはわかるが、何も告げられずにこれが出てきたら、わからない。豚皮のカリカリ揚げ。

わかる? ほんとうに? きみの言う『わかる』が、ぼくにはわからないなあ」
わからない? なるほど。きみの言う『わからない』が、ぼくにはわかるよ」

「アメリカには、米国の名の通りこめがあって、日本には、その英語名ジャパンにパンがあるんだ」。なぜ急にそんなことを言い出したのか、わからない。


コロナの時代にありそうな注意書き、わかる
▪共用スペースにつき、マスク着用のない会話はお控えいただきますよう、ご理解とご協力をお願いします。
▪こちら〈禁席〉です。ご協力ありがとうございます。
▪当店は非接触セルフサービス式の無声レストランです。

ホルモンの噛めども切れない歯ごたえにいつ飲み込めばいいのかわからない

「明後日までに完了のこと」というメモの、明後日がわからない、そもそも何をするのかがわからない

アイヌをテーマにした映画を観た後に、岩波文庫の『アイヌ神謡集』を読んだ。見開きの左頁にローマ字表記したアイヌ語、右頁に翻訳された日本語。どの行どうしを照合すればいいのかほとんどわからない

仕事の合間に

ああ、また凝り過ぎてしまった。「過剰よりも不足、複雑よりも単純」を創意工夫の根本に置いているつもりなのに……。

仕事に直接役立つ「中心付近」から入るよりも、「周縁」をうろうろして時間を費やすほうがいい。即効は望めないが、先々でじわじわと効いてくる。これも一つの経験則。

「悲観的に過ぎず、また楽観的に過ぎず」というような節まわしで二項対比していると、やがて二項は対立したり寄り添ったりする。結局、「どっちでもいいのではないか」に落ち着く。諦念と言えば格好いいが、無責任でもある。

「今の時代に合った働き方を!」とテレワークを肯定する人たちがいるが、いったいその働き方とは何なのか? 「今の時代に合った働き方」の前提にテレワークやリモートを置いているのだから、これは同語反復にほかならない。つまり、わかっていない。

何十回もここに来ている。映画鑑賞に来るのだが、シネマの入っている建物の裏手に足を踏み入れたことはなかった。早く着いたので裏手に回ってみた。大都会では絶対にありえないはずの里山風景を、この大都会・梅田で目にした。

人生は自分が生きるのは大変だが、映画館で見れば他人事で済む。いつもそう思うが、スウェーデン映画『ホモ・サピエンスの涙』を観て、強くそう思った。

しばらく会っていない人から手紙が届いた。この時期――しかも今年のこの時期ゆえ――しみじみ感が募る。お気楽には暮らせないのだ。仕事をやめて家にいる。現役時代はちっとも自分が見えなかったが、今は自分ばかりが見えてしかたがないそうだ。
ぼくが仕事を続けているのは――今も少しは出番があるからだが――何よりも自分から目をそらせる時間が増えるからである。自分が見えすぎるとナルシズムに陥る。そして、ナルシズムに捕まると、つまらないことを考えたり悩みの種を蒔いたりすることが多くなる。

働き始めてから今に到るまで、いつまで仕事をするのか一度も考えたことがないし、仕事をしていない自分を想像したこともない。