サンフランシスコ日記(2) ドロレス伝道院

カリフォルニア州はゴールデンステート(Golden State)という愛称で親しまれている。つまり、「黄金の州」。アメリカの州にはすべてこのような愛称がある。学生時代にいくつか覚えた。たとえば、ニューヨーク州がエンパイアステート(Empire State=帝国の州)、フロリダ州がサンシャインステート(Sunshine State=日光の州)という具合。

傑作はミズーリ州だ。この土地の人たちは疑い深いということになっていて、誰かが何々を持っていると自慢しようものなら、「じゃ、見せてくれよ」と言う。なので、ショーミーステート(Show Me State)と呼ばれる。アロハステート(Aloha State)ならハワイ州というわけ。さしずめ「県民性コンセプト」といったところだ。

さて、初日の夕方。ホテルのレストランに心が動かず、ケーブルカーで近くのスーパーへ買い出しに。行きが急な坂なのでケーブルカーに乗る。チキンのローストとサラダとパンを買って部屋で食べる。

食後にカリフォルニア通りの坂を下って東側の海岸を目指した。下りだからぶらぶらと30分くらいは歩ける。途中、中華街を探訪したが、横浜のほうが大規模で活気があるように思う。さらに下ると、オフィス街。そこを抜けて周回バスの乗り場を探したが、あいにく地図が手元にない。誰かに聞けばそれまでだが、ま、いいかと気まぐれにフェリーターミナルまで歩いた。ちょうどいい時間に夕暮れ空が見られたので、歩いて正解だった。

二日目の朝。時差ボケはない。近くのカフェでモーニングスペシャルを注文する。トーストと卵2個のスクランブル。さて、どこへ行くかと少々思案して、ドロレス伝道院(Mission Dolores)に決めた。ホテルからはケーブルでパウエル駅を経由して地下鉄で4駅目。後でわかったことだが、地図に間違いがあり、方向を誤って歩き始めていた。通行人に道を尋ねたが、スペイン語の単語のアクセント位置がよくわからない。「ミッション・ドロレス」と文字面通りに発音したら首を傾げられ、「ミッション・ドローレス」と言い直して通じた。場所は探すまでもなく、目と鼻の先だった。

カリフォルニアにはこのようなミッションが21もあるという。ここが州内最古の建物で、もらったリーフレットには年代的には1791年完成と記されている。但し、この地に入植しミッションが始まったのは建国年の1776年に遡る。あまり細かなことはわからない。白壁の装いからスペインの影響を見て取れる。伝道院から徒歩、ケーブル、バスを乗り継ぎ、再度フィッシャーマンズ・ワーフを目指した。ピア3939番埠頭)からの話は次回。

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幻想的な夕暮れ時のフェリーターミナルの海岸通り。
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夜は10℃を切り、冷たい風が吹く。6月に冬装束でも不思議はない。
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駐車状態から坂の勾配が半端ではないことがわかる。
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朝のカフェ。”モーニング”は日本同様だが、卵料理が選べる。
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ドロレス伝道院の聖堂を覗いたらミッションスクールの卒業式だった。
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18世紀を偲ばせる小ぢんまりした博物館。
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伝道院の中庭。瀟洒な佇まいである。
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ドロレス伝道院と聖堂の全景。
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聖堂と鐘楼。欧米では常にセットである。

サンフランシスコ日記(1)ケーブルカー

たまたまJulie London I Left My Heart in San Francisco”(思い出のサンフランシスコ)を聴く機会があり、ふと拙い滞在記を2009年に綴ったのを思い出した。そのサンフランシスコ滞在記を加筆修正して5回にわたって投稿する。


6月のある日の午前11時半、サンフランシスコ空港に到着した。海岸近くのジャイアンツスタジアム前を過ぎて名所となっている坂に入る。想像以上にきつい勾配の坂をタクシーは勢いよく駆け上る。市街のもっとも高い丘の一つ、ノブ・ヒル(Nob Hill)の一角にあるホテルにチェックインした。

荷を解いて休む間もなくホテルを出て近場を散策することにした。にわか土地勘を得てから、最寄りのケーブルカー乗り場へ。とりあえずフィッシャーマンズ・ワーフ(Fisherman’s Wharf)を目指そうとしたが、待つこと10分、15分、20分……待てどもやって来ない。人はどんどん増えてくるが、ケーブルカーの上ってくる気配はまったくない。

焦れてきたので、10分ほど下り坂を歩いて発着駅へ行ってみた。何か事故があったらしく、乗車待ちの客で長蛇の列ができている。ケーブルカーが何台も連なって動かず、発車待ちの状態。激しい空腹を覚える。近くのショッピングモールに駆け込み、ホットドッグとプレッツェルのシナモンスティックで腹ごしらえした。戻ってくると、ケーブルカーは動き始めていた。

乗車料金は15ドル。かなり割高だ。と言うわけで、18ドルの3日間チケットを購入した。これを使えば、ケーブルカーも市内の地下鉄もバスも何度でも利用できる。乗り放題チケットで心強くなり、方々へ乗り継いでみる気になった。

とりあえずパウエル駅からノブ・ヒルへ戻り、そこから坂を下って海岸へ。海辺は思ったほどの賑わいではない。日本人らしき観光客は何組かいるが、ツアー団体客は見当たらない。そう言えば、残席わずかと急かされて予約したユナイテッド航空の関空発の便はがらがらだった。この時期にしては珍しいインフルエンザの影響があったのか。

明日もう一度来ればいいと思い、フィッシャーマンズ・ワーフは中途半端に歩かずに、ホテルに戻ることにした。ホットドッグのせいもあってカニやエビの海鮮屋台に食指は動かなかった。気がつけば、日本時間なら午前9時。もう24時間以上寝ていないことになる。

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ホテルから見るノブ・ヒルの光景は乾いて澄み切っていた。
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星条旗がなびく建物が宿泊したホテル。到着日の午後は好天、しかし風が強く、とても6月とは思えない寒さだった。
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車両か事故のトラブルが解決して、ケーブルカーがようやく発着駅に入ってきた。
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木製の円盤の上に車両を載せた後は、係員が手動で回転させてケーブルカーの向きを変える。
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フィッシャーマンズ・ワーフの「玄関口」。
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湿気がないせいか、フィッシャーマンズワーフでは海特有の潮の匂いが漂ってこない。
鐘を勇ましく鳴らしながらケーブルカーが疾走する。
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「ケーブルカー鐘鳴らしコンテスト」の開催案内。運転士がテクニックを競う。

知をつくる

『パンセ』の369番の断章で「記憶は、理性のあらゆる作用にとって必要である」とパスカルは言う。これに倣い、理性を知に置き換えて知をつくる話を記憶力から書き始めたい。記憶力の問題は、インプット時点とアウトプット時点の二つに分けて考える必要がある。

注意力、好奇心、強制力の三つが働く時、情報は取り込みやすい。あまり受けたくないテストに臨む時の好奇心は小さい。だが、強制力があるので一夜漬けでも覚えようとする。普段より注意力も高まる。ゆえに覚える。ぼんやり聞いたり読んだりするよりも、傾聴・精読するほうが情報は入ってくる。注意のアンテナが立っているからだ。好奇心の強い対象、つまり好きなことはよく覚える。

言うまでもないが、覚えたことをいつでも思い出せるとはかぎらない。特に、取り込んでもいない情報を取り出すことはできない。「思い出せない=記憶力が悪い」と思う人が多いが、そもそも思い出せるほどしっかりと記憶していないのである。

記憶エリアは〈とりあえずファイル(一次記憶域)〉と〈刷り込みファイル(二次記憶域)〉とに分かれていて、すべての情報はいったん〈とりあえずファイル〉に入る。これは記憶の表層に位置しており、しばらくここに置きっぱなしにしているとすぐに揮発してしまう。数時間以内、数日以内に反芻したり考察を加えたりして他の情報と結び付けるなど、何らかの編集を加えてやれば、情報が〈刷り込みファイル〉に移行する。こちらのファイルは記憶の深層に位置するので、ちょっとやそっとでは忘れない。ここにどれだけの知を蓄えるかが重要なのだ。


さて、〈刷り込みファイル〉からどのように知を取り出して活用するか。これが次の課題になる。工夫をしなければ、蓄えた情報は相互参照されずに点のまま放置される。点のままというのは、たとえば、「喧しい」という字を見て「かまびすしい」と読めるが、このことばを使って文章を作れる状態にはないことを意味する。つまり、一問一答の単発的雑学クイズなら解答できても、複雑思考系の問題を解決できるレベルに達していない。一つの情報が他の複数の情報とつながっておびただしい対角線が引けるなら、一つの刺激や触媒でいもづる式に知をアウトプットできる。

〈刷り込みファイル〉内で知の受容器が蜘蛛の巣のようなネットワークを形成するようになると、これが情報を感受し選択し取り込む〈受容体レセプター〉として機能する。一を知って十がスタンバイするようなアタマになってくるのだ。

考えてみてほしい。レセプターが大きくかつ細かな網目状になっていたら、初耳の情報でも少々高度で複雑な話であっても、何とか受け止めることができる。蜘蛛の巣に大きな獲物がかかるようなものだ。ところが、レセプターが小さくて柔軟性に乏しいと、情報を摑み取るのが難しくなる。スプーンでピンポン玉を受けようとするようなものだ。バウンドしてほとんどこぼしてしまうだろうし、あわよくばスプーンに乗ったとしても、そのピンポン玉(情報)は孤立しているから、知のネットワークとして機能してくれない。

少しでも知っていることなら何とか類推も働くが、あまりよく知らないと手も足も出ない。これでは知的創造力が期待できない。知らないことでも推論能力で理解し身につける――知のネットワークが形成できていればこれができる。そして、ネットワークは雪だるま式に大きくなる。

知は外部にはない。知を探す旅に出ても知は見つからないし、知的にもなれない。外部にあるものはすべて「どう転ぶかわからない情報」にすぎない。それらの情報に推論と思考を加えてはじめて、自分のアタマで知のネットワークが構築できる。知の輪郭こそが、ぼくたちが見る世界の輪郭だ。周囲や世界が小さくて霞んだような輪郭に見えるなら、その視界の狭さ、ぼんやり感が現在の知の姿にほかならない。 

比喩と表現と

生命が冬眠から覚めた。いよいよ春本番。年に一度、この時期にルナールの『博物誌』をひも解く。この博物誌は比喩によって動物たちのアイデンティティをあぶり出してくれる。色とりどりの表現で本質を切り取る巧妙さにほとほと感心する。たとえば蛍のことを『博物誌』では次のように描写する。

ほたる
1 何が起こったのだろう? もう夜の九時だというのに、あいつの家にはまだあかりがついている。
2 草に宿った月の光のひとしずく!

半世紀前、都会と田園の間にはまだ境界はなく、複雑に入り組んでいた。十代まで育った地域は都会だったが、住宅のすぐ隣りにはまだ田んぼがあり草むらがあった。川があり、そこから細い支流が分かれ田んぼのそばに流れ込んでいた。だから幼い頃には蛍を目にした記憶がある。

昨日、商店街で豚の耳を売っていたので一枚買った。細切りにしゴマ油と塩で白ネギと和えて、おいしくいただいた。さて、豚の耳と目をルナールはどう表現したか。


おまえは砂糖大根の葉っぱに似た耳のかげに、黒すぐりの実みたいな小さな目を隠している。

砂糖大根てんさいの葉っぱをよくぞ連想したものだ。黒すぐりとはカシスの実である。言われてみると、なるほどと納得する。アタマの中で絵を描いたら豚の顔になってきた。輪切りにした蓮根を鼻に見立ててくっつければ完璧な豚だ。

カエルは姿を消したが、都会ではカラスは昔よりも今のほうが繁殖している。カエルとカラスにもルナールは比喩を使う。

かえる
青銅の文鎮みたいに、すいれんの広い葉の上にのっかっている。

からす
畝溝うねみぞの上の
アクサン・グラーヴ。

子どもの頃、カエルを餌にしてザリガニを釣って遊んだ。地面に叩きつけて気絶させ、皮を剥ぐ。今思えば残酷きわまりない。カエルには、生き物ではなく、人工的な造形を思う。青銅の文鎮?  たしかにそんなカエルもいた。

カラスの比喩もおもしろい。畝溝で餌を探しているカラスを遠目に見れば、àèùなどのアクセント記号「アクサン・グラーヴ」に見えなくもない。

爬虫類の代表はヘビとトカゲ。ルナールが描写したヘビの表現はあまりにも有名である。

へび
1 長すぎる。
2 子午線の四分の一、そのまた千万分の一。

長いヘビなのに「長すぎる」と言葉少なに言い切ってしまう。続いて、どれだけ長すぎるのかを示すために子午線を出してくる。なぜわざわざ子午線なのか。面倒なので確認の計算はしないが、まあそのくらいの長さなんだろうと妙に納得してしまう。

とかげ
壁 「なんだか背筋がぞくぞくするぞ」
とかげ 「ぼくだよ」

青いとかげ
ペンキ塗りたて、ご用心!

バルセロナはガウディ公園でトカゲの作品を見たことがあるが、あれはモザイクだから、ペンキ塗りたてには見えない。しかし、生きた青トカゲを実際に目にすると、あの青がまだ乾いていないように見える。つまむとペンキが指先につきそうになる。

メモの中のメモ

SNSで投稿したりコメントしたりした一文は一過性の運命を背負って消えていく。なんだかせつない。即興の文章とは言え、書いた直後にハッと気づくことがある。その一文から発想が広がりそうな予感がする時もある。そんな時は、とりあえずメモアプリに流し込んでおく。メモはお金以上によくたまる。


 アッシジのフランチェスコのように放蕩三昧する勇気もなく、居直って無為徒食もできない。かと言って、日々刻苦精励しているわけでもない。おおむね人は中途半端に生き長らえていく。

 日が長くなり、昼が夕暮れにバトンタッチする時間が午後6時を回るようになった。

 桜が芽吹こうとしている。この堅い芽がやわらかい花びらに変身する。やさしく咲いてははかなく散るの繰り返し。人知を超越したこんな現象に出くわすと、精神が神妙ということを思い出す。

 ぼくはね、未だ女装と人を踏み台にしたことがないんですよ。

 満月を二日後に控える月を「不満月」と呼んでみる。

 カニは人を寡黙にし、カキは人を饒舌にする。

 自ら人に働きかけず人と関わろうとせずに知らんぷりする人生よりも、面倒臭そうにされてもお節介する人生のほうがいいと思っている。それが間違っていないこと、いや、肯定すらできるということを『おみおくりの作法』という映画が教えてくれた。

 「豆単」などと言っても知らない人が多い。川柳を作ってみたのだが、はたしてわかってもらえるのだろうか?

Abandon 覚えて豆単 放棄する
豆単を売った赤尾の一人勝ち

 今となっては必要としなくなったすべてのものが、生まれた意味を否定されていいはずがない。人もモノも考えも、そして食べ物も。

ぼくは伊勢うどんを一度食べた。そして、それが最後になった。つまり、もう食べないし必要ともしない。しかし、時にその味を批判しながらも貶し過ぎないように心掛け、その存在に寛容であり続けたいと、まるで神のような境地に到ることができた。ありがとう、伊勢うどん。

不在の発見

頭痛を紛らわせようとして就寝前に読書する。余計にアタマを苦しめる? いや、必ずしもそうなるとはかぎらない。ぐっすり眠れてすっきり目覚めて、頭痛が消えていることがある。「知の疲れは別の知で癒せ」。これは案外確率の高い経験法則である。酒飲みが自分の都合で発明した、二日酔いを酒で治す「迎え酒」よりもずっと信頼性の高い処方箋かもしれない。

その本のどこかの章で「幸福は不幸が欠けている状態であり、不幸は幸福が欠けている状態」というようなテーマが論じられていた。あるものが成立している背景には別のものが欠けている。つまり、いま居酒屋で飲んでいれば、車を運転している状況が欠如している。いや、それどころか、会社にいることの欠如でもあるし、自宅で子どもと遊んでいることの欠如でもある。三日月が見えるためには、9割ほどの月の面積が欠けなければならない。

ところで、「彼は幸福ではない」と「彼は不幸である」は同義か? 幸福・不幸という概念は難しいので、わかりやすく、「この弁当はおいしくない」と「この弁当はまずい」は同義か? と考えてみる。おそらく、「まずい弁当→おいしくない」は成り立つだろう。だが、「おいしくない弁当→まずい」はスムーズに導出しにくい。「おいしい」を5点満点の5点とすれば、「おいしくない」は4点かもしれないし1点かもしれない。

不幸な状況にあっても、たった一つの小さな出来事で幸せになれてしまうのが人間だ。一万円を落として嘆いていたら、五千円札を拾った。収支マイナスだけれど、なんだか少しは心が晴れた。不幸に欠けている幸福を探すのはさほど困難ではないかもしれない。問題は、幸福を成立させるために欠落させねばならない不幸のほうだ。数え上げればキリがない。ゆえに、幸福になるよりも不幸になるほうが簡単なのである。


いま見えているもの・存在しているものばかりに気を取られるのが人の常。しかし、それでは凡人発想の域を出ることはできない。当然のことだが、「ない(不在・不足)」は「ある(存在・充足)」よりも圧倒的に多い。だから、どんなに「ある」を獲得しても「ない」の壁にぶつかって悩むのである。「何があるか」はわかりやすいが、「何がないか」には気づきにくい。「テーブルの上にりんごがある」とは言えても、「テーブルの上にウィリアム・テルはいない」と言える人は少ない。

いま見えていないもの、いま自分に足りないものへの意識。あと一つで完成するのにそれがないということに気づく感受性。その足りないものをどこからか安易に調達してくるのではなく、意気軒昂として編み出そうとしてみる。いや、編み出さなくてもいい、「ないもの」が目立つことによって新しいコンセプトが生まれることがあるのだ。

かつて“Sesame Street”というアメリカの子ども向け番組が一時代を画すヒットになった。日本で放送が開始された当時、アメリカ人の番組担当者が語ったことばが印象的である。

“Teachers are conspicuous by absence.”

「不在によって先生が目立つ」。つまり、「先生が登場しない、だから余計に先生が感じられる」ということだ。あの番組にはパペットや近所のおにいさんやおねえさんは登場したが、教師は出てこなかった。教師はいなかったが、生きた教育を垣間見ることができた。足し算ばかりでなく、「ないことによって感じられる」という引き算価値にも目を向けたい。物事の編集には不在感や不足感が欠かせない。

まねるべきお手本

いろんなテーマについて数え切れないほどの研修テキストを著して今に到っている。主義として苦手なことや不案内なことは書かない。自分が理解していること、実際に習慣として実践していることだけを文章にする。しかし、それだけでは独りよがりになることがあるので、なるべく象徴的な事例やエピソードで自論を補う。学び手にとってサプライズがあるかどうかが選ぶ基準である。

以前、ブランドをテーマに取り上げたことがある。小さな会社にとっては、羨ましくもなかなか手にしづらい品質と信用の記号である。商品やサービスはおおむね「機能的価値」と「記号的価値」を併せ持つ。たとえば、喉を潤すだけなら水は機能的価値を有していればいい。無性に渇いているならペットボトルの天然水であるか水道水であるかはひとまず重要ではない。天然水と水道水の間には飲料水としての機能的価値に大差がないのだから。

ところが、健康や安全、あるいはボトルのデザイン要素やネーミングやメーカー名などの記号的要素が加味されると、そこに無視できない差が生まれる。ペットボトルに入った天然水なら150円になるが、水道水にそんな値段はつかない。機能的価値に加えて記号的価値が大きくなればなるほど「ブランド力がある」ということになる。但し、水道局が作る「うまい水道水」がペットボトル詰めされてテイストの良いデザインのラベルが貼られたら、これはブランドへの道を一歩踏み出したことになる。

この種のブランドの話をわかりやすく説明するには、小さな会社や商品のブランド事例のほうが身近で参考になる。それでも、意表をつく発見や驚きはいる。手を伸ばせば届く範囲のお手本や同規模・同業種の先行事例を学べば確かによくわかるだろうが、学習効果には見るべきものがない。だから一流ブランドの事例であっても、そこに想定外の題材があるならば積極的に取り上げるべきなのだ。


ウィリアム・A・オールコットは『知的人生案内』の中で次のように語る。

自分の行動の基準を高すぎるところに置くのは危険だという考え方がある。子供には完璧な手本を習わせるよりも、やや下手な手本を与える方が、ずっと速く字を覚えるという教師もいる。完璧な手本を与えられると生徒はやる気をなくしがちだが、生徒よりちょっとうまいという程度の手本なら、自分もすぐにこのくらい書けるようになると思って、やる気を出すというのである。しかし、その考え方は絶対まちがっている。手書きのものなら、子供にはできるだけ上手な手本を与えた方がよい。子供は必ずそのお手本をまねるはずである。どんな子供でも、少しでもやれる可能性のあることなら、自分でやってみようという向上心をもつはずである。 

ぼくの意見とはだいぶニュアンスは違うが、できるだけよい手本を目標にすべきという主張には賛同する。ぼくの考えはもっと過激だ。選択肢が二つある時、まねできる可能性がまったくなくても、また、手本と自分の実力の差に愕然としてショックを受けようとも、レベルの高いほうをつねに手本にすべきである。自分に少し毛の生えた程度の手本に満足してはならない。

初心者だから先輩の素人が描いた絵をお手本にするのがいいのか、初心者と言えども古今東西の一流の作品を見せるべきか。「わかりやすく、まねしやすい」をお手本選びの判断基準にしてはいけない。構図であれ色調であれタッチであれ、太刀打ちできない印象を与えるものをお手本にするべきだろう。二流を参考にして上達しても一流にはなれない。結果的に一流になれずとも、目指すべきは一流でなければならない。そうでなければ二流にもなれない。

手本に学ぶ。手本通りにいかないし、手本のレベルにも到達できないことが多い。それでもなお、手本を一流のものにしておけば御手並拝見できる「眼力」はつく。絵は上手に描けなくとも一流の鑑賞眼を身につけることができる。料理が作れなくても味覚を研ぎ澄ますことはできる。チャーチル首相は言った、「私は卵は産めないが、卵が腐っているかどうかはわかる」と。 

即興の笑いと仕込みの笑い

生真面目な話が生真面目なスタイルで語られ綴られる。それなりに響いてくることもあるし、「なるほど」「そだねー」と納得できることもある。もちろん、退屈させないようにと気配りして、生真面目な話を愉快な調子で伝えることもできる。やり過ぎては逆効果になるが、生真面目なテーマとユーモアの味付けがうまくいくことがある。

安定して笑いを取るには経験と場数が必要だ。笑いの匙加減は微妙なので、大いに注意を払わねばならない。笑ってもらえれば何だっていいというわけにはいかないのだ。爆笑や大笑いもあれば、エスプリ系の抑制のきいた笑いもある。顔色一つ変えずに胸の内だけで微笑みたくなるような笑いがある。そういうセンスのよいユーモアは好みであるが、めったに見聞きできないし、自分でも披露するのに苦労する。

大阪に生まれて暮らしてきたぼくの周辺には「おもしろい人たち」が少なくない。しかし、彼らのほとんどが笑いを取ることに意識過剰である。笑いのテイストにはさほどこだわらず、ひとまずウケようとする。いや、プロの芸人でもないのに、「笑いを取らねばならない」という、変な責任感を持っている。仲間の講師にもつかみとオチを考えるのに熱心なのがいる。


ジョークなどは地の文と会話文を絶妙に織り交ぜてストーリーを演出する笑いだ。仕込みと計算は欠かせない。何よりもきちんと覚えておかねばならない。ギャグやダジャレは違う。ストーリー性のない瞬発力勝負のことば遊びであり、おおむね即興でその場で生まれる。ウケたからと言って、性懲りもなく繰り返しているとマンネリズムで色褪せる。醤油が出てきたら、決まって「しょうゆうことです」と言うのがいるが、もううんざりである。

今まさに作られた場当たりのギャグやダジャレは少々出来がお粗末でも、即興性に値打ちを見い出してあげたいと思う。おもしろくてもおもしろくなくても、場を和ませ会話を滞らせたくないという思いは理解できる。即興なら少しくらいすべってもいい。しかし、計算をして仕込み、ウケようとした笑いはすべってはいけない。大阪ではポスターの標語などに笑いを仕掛ける傾向がある。「笑いを取らねばならない」という意識は、生真面目で公共性の強いテーマにも滲み出てくる。

ダメのことを大阪弁で「アカン」と言うが、ダジャレとしてよく公的なスローガンでも使われる。「痴漢はアカン」や「捨てたら、あ缶」などだ。そしてついに、練りに練ったと思われるポスターが登場した。「迷惑たばこは アカンずきん。」 初めて見た時も今も一度も笑わせてもらっていない。かと言って、呆れ果てているわけでもない。「笑いを取らねばならない」という制作者の思いが汲めるからだ。しかし、練りに練った割には、うーん、これしかなかったのかという気分である。

懐かしい味

子どもの頃によく食べたおやつがある。その名もバナナカステラ。ぼくの周囲ではバナナパンとも呼んでいた記憶がある。懐かしい菓子であり、そして、昔ほど目につくわけではないが、今も売られている。「おかしなバナナ」と命名された商品を見つけた。菓子だから「おかしなバナナ」。

バナナカステラの他に、味つけパン、塩パン、蒸しパンなども末裔が生き長らえて昭和の食の風物詩を今も紡ぐ。生地に染み込んでいるのはノスタルジーの味である。

バナナカステラには自己同一性があるなどと言えば、大袈裟に過ぎるだろうか。時代が移り変わり人の味覚が変わっても、バナナカステラかくあるべしという主体性を失っていない点では、そう言えるような気がする。では、その正体はいったい何であったのか、そして今も何であり続けているのか。


たいせつな点だが、バナナカステラは果物のバナナがカステラになったものではない。バナナ味のエッセンスで味つけしたカステラであり、本物のバナナとは関係がない。ぼくにとっては菓子パンの一つだったが、パンよりもカステラが言い得て妙なのは、水分がかなり少ないからである。

カステラには“BANANA”という文字が浮き彫りになっている。エンボス加工である。「おかしなバナナ」のパッケージは「白あん入り」と謳っている。いかにも、白あん(または白あんモドキ)が中に入っている。商品によっては、白あんは文字の“ANAN”のあたりだけで、冒頭の“B”と末尾の“A”になかったりする。端の一口を齧ってもカステラだけということがある。

うまいかと聞かれれば微妙だ。昔と違って、食感のいい美味な菓子は今ならいくらでもある。バナナカステラのポジションは「マズウマ」かもしれない。まずいようでうまい。これは絵の「ヘタウマ」と同じで褒めことばだ。カステラの部分は乾いているので唾液がいっぺんに取られてしまう。そこに白あんが絡んで、ほんの少しだけしっとりする。お茶にも合う。

菓子パンの定番であるアンパン、イチゴジャムパン、クリームパン、メロンパンと比較すると、マイナーな存在と言わざるをえない。しかし、子どもにとっては目新しかった。おそらくバナナそのものが貴重な時代ならではの存在だったのだろう。時折り思い出しては一本賞味してみようと思う。一本食べると、もう一本に手が伸びてしまうのは今も昔も変わらない。

ヒューマンスキルとリテラシー

「ノリヒビ」ということばを聞いたり読んだりしたことがあるだろうか。「海苔ひび」。海中に立てる竹や粗朶そだという木の棒のことである。この棒に胞子を付着させて海苔を養殖する。最初は遅々として目立たないが、やがてしっかり定着すればみるみるうちに海苔が繁殖していく。

何かが大きく成長するためには、この棒のような核が必要で、学びにも当てはまる。学んだことは核となるスキルにまつわりついて増殖させていかなければならない。ノリヒビはそんなたとえにも使われることがある。ヒューマンスキルにとって、ひびや胞子に相当するものが必要なのである。

学び手と学習メニューの関係は、身体とサプリメントの関係に似ている。毎日の食事さえバランスよくきちんと摂り、ほどよく運動して筋肉を鍛えていればおおむね問題無しと、良識ある専門家は異口同音に唱えている。しかし、栄養に過多や偏りがあると体力に不安を覚え体調異変を感じる。そうなると、中高年は手っ取り早くサプリメントに依存するようになる。

ぼくも例に漏れなかった。ウコンに卵黄ニンニク、納豆キナーゼにノコギリヤシ、マルチビタミンや各種ミネラルを試してみた。通販で買ったためにしつこくフォローの電話攻めにも遭った。やがて主客転倒していることに気がついたのである。栄養源は水で流し込むのではなく、よく噛まねばならないのではないか。きちんと食事をして年齢相応に身体を動かし、歩き、ストレッチをする。そういうふうに生活スタイルをシフトして現在に到っている。


さて、ヒューマンスキルのサプリメントには何がいいのか、いや、そもそもサプリメントでいいのだろうか。世間には学習コンテンツが目白押しだ。その中から選んだものを摂取すれば、必ず身につくのか。意に反して、いくら摂取しても効き目を実感していない人たちも多いのだ。摂取直後は何らかの効果を実感できたとしても、効き目が持続するとはかぎらない。何日かすれば元の木阿弥状態になりかねない。学習メニュー提供側のぼくとしても、大いに反省しなければならないと思っている。

食事同様、学習サプリメントはあくまでも副である。サプリメントとはもともと「補足」という意味だ。やむをえず不足を補うものであって、主たる存在ではない。毎日の食事が主であるように、もっともよく使うスキルこそが主ではないか。そう、ヒューマンスキルの主食はことばというリテラシーなのだ。リテラシーこそがノリヒビであり、ぼくたちは幼少の頃から「ことばの胞子」をずっと養殖してきたはず。

日々を振り返れば、生活も仕事も「読み・聴き・話し・書く」で成り立っている。これら言語の四技能というリテラシーを駆使して一日を過ごしている。いかなる専門スキルも言語の核にまつわりついてこそである。肝心要の言語力が乏しければ、知識や情報を大量に取り込んでも定着しない。そして、レベルアップするにつれて、とりわけ読むことと書くことの重要性が高まってくるのである。