続・対話とスピーチ

スピーチが面白くないのは、多数の聴衆に向けて準備するからである。多数を相手にするから、冒頭は「皆さん」で始まり、上位概念のことばが連なるのである。世間にスピーチ上手という人たちがいるが、流暢で弁舌さわやかだから上手なのではない。名人級はスピーチという形式の中に「トーク」の要素を散りばめる。トークとは「一対一の対話」であり、必然ことばも描写的になり論理的になる。いい加減に、「論理イコール難解」という幻想を取り払ってほしいものだ。「論理イコール明快」こそが本筋なのだから。

まあ、スピーチが面白くないのは許すとしよう。けれども、スピーチに慣れてしまうと言語力が甘くなるから気をつけるべきだ。覚えてきた筋書きを再現するばかりだと、言語脳は状況に応じたアドリブ表現を工夫しなくなる。ただ聴いてもらうだけで、検証も質問もされない話は進化しない。そんな話を何万回喋っても言語脳は鍛えられない。

他方、対話には共感も異議も説得も対立もある。状況はどんどん変わるし展開も速い。そこには挑発がある。一つの表現が危うい論点を救い、相手の主張を切り崩してくれることもある。対話は生き物だ。想定の外にテーマや争点が飛び出す。少々嫌悪なムードになることもあるが、慣れればアタマに血が上らなくなる。何よりも、対話はスピーチよりも脳の働きをよくしてくれる。


(A)起立をして大多数の前で話そうとすると、ついフォーマルになり形式的になり空理空言が先行する大仰なスピーチをしてしまう。

(B)一対一で座ったまま話す習慣と論理的話法の訓練を積むと、対話の波長が身につく。

(B)ができれば、実のあるスピーチができるようになる。対話力はスピーチにも有効なのだ。しかし、(A)のタイプはことごとく(B)にはなれない。「今日は座ったままディベートをしよう」と申し合わせても、ついつい起立してしまう者がいる。スピーチに慣れすぎるとカジュアルトークができなくなってしまうのだ。ロジカルでカジュアルな話し方を身につけようと思ったら、起立して「皆さん」から始めるのをやめるのがいい。

十年ほど前、スピーチ上手で名の知れた講師と食事をしたことがある。ぼくより20歳以上先輩になるその人は、講演していても絶対に「噛まない、詰まらない、途切れない」。しかも、喜怒哀楽を見事に調合して巧みに聴衆に語りかけたかと思うと、絶妙に自己陶酔へとギアチェンジする。だが、ぼくと二人きりで食事をしていても、講演とまったく同じ調子。あたかも数百人の聴衆に語るかのように喋るのだ。数十センチの至近距離。これはたまらない。たまらないので、話の腰を折るように「リスペクトしない質問」をはさむ。するとどうだ、その先生、フリーズしてしまったのである。「な~んだ、この人、テープレコーダーの再生機能と同じじゃないか」と落胆した。スピーチ屋さんは変化球に弱いのだ。

省略を避ける無難な習慣

昨日の話の続きである。省略という行為を「奇妙な習慣」と言ってはみたが、よくよく考えると、省略しない、すなわち敢えて面倒な形式的手順を踏むことも奇妙な習慣に思えてくる。正確に言えば、無難な習慣ということになるだろうか。

フォーマルな手紙のあいさつ表現に「拝啓-敬具」というセットがある。「こんにちは」と言うほど親しくもなく、かといって共通の話題もない。そんなとき、さしさわりなく始めさりげなく終えるのにもってこいの常套手段である。手紙の文章が「拝啓」で始まる――それは、次に続く「貴下益々ご清祥……」や「師走の候……」にはほとんど意味がないことを書くほうも読むほうも了解済み、ということだ。したがって、拝啓の次はしばらく飛ばして「さて」まで行けばいいことになっている。

ぼくもやむなく「拝啓」で始めなければならない手紙をしたためることがある。しかし、拝啓で始めたにもかかわらず、その後に書くべき定型文のどれもが相手にふさわしくなくて困り果てる。そんなとき、「拝啓」の後に何となく「前略」と書きたくなるのだが、この衝動は例外か。


心にもないことを書き、それを相手が読みもしないのだから、「前略」一つですべてをまかなえばどうだろう。前略とは手紙文の文章の前の部分を省略することである。それは、冒頭の時候のあいさつも省いてしまってもよいという約束の上に成り立っている便利な記号だ。つまり、「儀礼的な挨拶はしません」とか「用件のみ」とか「すぐに本題に入ります」とか「冗談抜きで」という合図であり予告である。

ところが、前略に続いて「大変ご無沙汰しておりますが、日を追って寒さが厳しくなる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか」という変則をよく見かける。これは、「拝啓 貴下益々ご清祥」ほどフォーマルではないにせよ、「カジュアル・ヌーヴォー」と呼ぶべき新ジャンルだ。この形式においても、「さて」が来るのは数行先である。前略だけではない。だいたい「略儀ながら」と書かれてある手紙で形式的な手続きが略されているものにはめったにお目にかからない。そして、このような奇妙な習慣は電子メールにも継承されている。

いっそのこと「前略-草々」というセットもやめてしまってはどうだろうか。前略なのに往生際が悪く、何一つ略していないではないか。ぼくの場合、メールであいさつが面倒なとき「用件のみ」と書くことがある。反省すれば、あれだって一種の言い訳だ。唐突感を避けて本題を少しでも先送りしようとする魂胆がある。同様に、前略も言い訳に等しい。そんな言い訳を一言もしたためず、いきなり用件からズバッと入る。一切の飾りや虚礼がないからぶっきらぼうである。まるでウォームアップなしにいきなり水に飛び込むようなもので、危険なことこのうえない。書き手には尋常でない勇気がいる。と同時に、そんな手紙やメールを受け取る読み手の器量と度量も試される。

昨日地名の話から始めた「省略」の主題が、変な方向に脱線してしまったかのようだ。中途半端でオチもない。ゆえに「後略」とする。