良識欠乏症にうんざり

塾生のブログに大いに共感したので、「便乗」して書いてみたい。便乗ということばに過剰反応されては困る。このことばにはもともと是も非もない。中庸的な「相乗り」のことである。「街まで行かれるのなら、乗せていってもらえればありがたい」というふうな、ヒッチハイク感覚のことばだ。後で書くが、便乗商法としてセットで使われることが多くなり、便乗単独だけでも悪徳イメージの烙印を押されてしまうようになった。冤罪である。

さて、ブログで特に共感したのは、「『こういう言い方はふさわしくないかもしれないが』などという前置きは、それだけで発言者の意識を疑ったほうがいいように思う」というくだりだ。この種の前置きは、衝撃吸収のためのクッションで使われると言われているが、使い手が必ずしもそんな配慮をしているとは思えない。なぜなら、直後には、前置きと大きな落差のある「衝撃的ホンネ」が吐き出されるからだ。よく耳にするのが、「それはそれでいいのですが……」や「別にダメだと言うわけではないけれど……」や「反論するつもりはまったくないですが……」などの類である。

「それはそれでいいのですが……」は「それはよくない、もっといいのがある」であり、「別にダメだと言うわけではないけれど……」は「ずばりダメだ」であり、「反論するつもりはまったくないですが……」は「反論するぞ」と同義なのだろう。相手を害してはいけないとおもんぱって前置きするのはむしろ少数派である。ほとんどの場合、確信的に反意と挑発の地雷が仕掛けられている。手に取るように狡猾な手の内がわかるから、ぼくは逆撫でされたように「前置きごっこはやめましょう」と機先を制する。


対話と議論のセンスの無さにうんざりする。もっと言えば、なんとまあ良識の本質を知らないのかと失望する。「〈良識(bon sensボン・サンス)〉はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」とデカルトは言った(『方法序説』)。この際デカルト哲学への賛否を棚に上げて、ひとまずこのことばの重みを受け止めてみるべきではないか。人々を安心、安全、安寧へと導くべき地位に就いているリーダーたちは、なぜ良識を失ってしまったのか。驕りと保身と我執がしゅうと引き換えたためである。天与の良識ならば、一度失ってしまうと再び取り戻すのはむずかしい。

冒頭の便乗に話を戻す。便乗は、転じて「機会に乗じて利己的に振る舞うこと」を意味するようになった。しかし、便乗商法のすべてを裁くならば、もう経済発展や市場戦略などを口にしてはなるまい。なぜなら、話題になった商品を他社が真似たり、人気タレントにあやかって町おこしやイベントを開催するのが商売の常だからである。商売の大半はニーズやトレンドに便乗することによって成り立っている。たとえば、すべての携帯電話やスマートフォンは一号機に便乗したのである。小さな文房具店の老夫婦が、雨が急に降り出したのを見て店先に傘を並べるのをけしからんと言いうるか。

大震災の悲劇に乗って我が田のみに水を引くことや、地デジを利用してインチキ商品を売ることを「悪徳便乗商法」と呼ぶのである。被災地の人々に届かぬほど商品を大量に買い占めて高値で売るのが悪徳だ。この連中は金のために良識を売る。他方、一個でいいはずのラーメンをつい二個買ってしまうのは、不安に苛まれるからであって、悪意ゆえではない。この結果品切れが生じることを知れば、ぼくたちは普段通りに一個で済ませる良識を持ち合わせているはずだ。

いま襟を正して良識に大いなる発露を与えなければ、うんざりを通り過ぎて絶望に到る。そうならないように、ぼくたち大勢は良識を働かせるべく振る舞うようになっている。但し、楽観はできない。間に合わせにこしらえた良識の仮面を被る人間も少なくない。そして、彼らの素顔を見破るのは容易ではないのである。

続・対話とスピーチ

スピーチが面白くないのは、多数の聴衆に向けて準備するからである。多数を相手にするから、冒頭は「皆さん」で始まり、上位概念のことばが連なるのである。世間にスピーチ上手という人たちがいるが、流暢で弁舌さわやかだから上手なのではない。名人級はスピーチという形式の中に「トーク」の要素を散りばめる。トークとは「一対一の対話」であり、必然ことばも描写的になり論理的になる。いい加減に、「論理イコール難解」という幻想を取り払ってほしいものだ。「論理イコール明快」こそが本筋なのだから。

まあ、スピーチが面白くないのは許すとしよう。けれども、スピーチに慣れてしまうと言語力が甘くなるから気をつけるべきだ。覚えてきた筋書きを再現するばかりだと、言語脳は状況に応じたアドリブ表現を工夫しなくなる。ただ聴いてもらうだけで、検証も質問もされない話は進化しない。そんな話を何万回喋っても言語脳は鍛えられない。

他方、対話には共感も異議も説得も対立もある。状況はどんどん変わるし展開も速い。そこには挑発がある。一つの表現が危うい論点を救い、相手の主張を切り崩してくれることもある。対話は生き物だ。想定の外にテーマや争点が飛び出す。少々嫌悪なムードになることもあるが、慣れればアタマに血が上らなくなる。何よりも、対話はスピーチよりも脳の働きをよくしてくれる。


(A)起立をして大多数の前で話そうとすると、ついフォーマルになり形式的になり空理空言が先行する大仰なスピーチをしてしまう。

(B)一対一で座ったまま話す習慣と論理的話法の訓練を積むと、対話の波長が身につく。

(B)ができれば、実のあるスピーチができるようになる。対話力はスピーチにも有効なのだ。しかし、(A)のタイプはことごとく(B)にはなれない。「今日は座ったままディベートをしよう」と申し合わせても、ついつい起立してしまう者がいる。スピーチに慣れすぎるとカジュアルトークができなくなってしまうのだ。ロジカルでカジュアルな話し方を身につけようと思ったら、起立して「皆さん」から始めるのをやめるのがいい。

十年ほど前、スピーチ上手で名の知れた講師と食事をしたことがある。ぼくより20歳以上先輩になるその人は、講演していても絶対に「噛まない、詰まらない、途切れない」。しかも、喜怒哀楽を見事に調合して巧みに聴衆に語りかけたかと思うと、絶妙に自己陶酔へとギアチェンジする。だが、ぼくと二人きりで食事をしていても、講演とまったく同じ調子。あたかも数百人の聴衆に語るかのように喋るのだ。数十センチの至近距離。これはたまらない。たまらないので、話の腰を折るように「リスペクトしない質問」をはさむ。するとどうだ、その先生、フリーズしてしまったのである。「な~んだ、この人、テープレコーダーの再生機能と同じじゃないか」と落胆した。スピーチ屋さんは変化球に弱いのだ。