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饒舌と寡黙
「口は禍の門」、「もの言えば唇寒し秋の風」、「沈黙は金、雄弁は銀」、「巧言令色鮮なし仁」……。
聴き取りと文脈再現
誰かが誰かの話を真剣に聴いているとする。この時、二つの「けいちょう」が考えられる。一つは〈敬聴〉で、謹んで聴く状態である。ことさらに容儀を正して真摯に聴いている様子が見た目にわかる。但し、この態度のうわべだけで、よく聴きよく理解していると早とちりしてはいけない。よく目を凝らしてみれば、多くの場合、敬聴が耳を澄ましている振りや儀礼であったりすることがわかる。
もう一つの「けいちょう」、すなわち〈傾聴〉こそが一所懸命に聴くことを意味する。傾聴に関してはこんなエピソードがある。
十年近く前になるが、対話における傾聴の意義をこれでもかとばかりに語った講演終了後、ぼくと同い年くらいの女性が「質問してもいいですか?」と近寄ってきた。快くうなずけば、彼女はこう切り出した。「あのう、私ね、傾聴が苦手なんです。どうすればいいでしょう?」 内心思ったのは「ついさっきまで、その話をしていたつもりです。何を聞いていたんですか!?」だったのだが、「傾聴が苦手な人」にそうたたみかけるのは酷だと感じた。そこで逆にぼくから尋ねてみた。「もう少し詳しく聞かせてください。何が聞けないのか……」 そうすると、彼女はこう言ったのである。「先生、私、少し難聴なのです。相手の言っていることがよく耳に入ってこないのです。」
「傾聴のアドバイスはできますが、難聴のアドバイスはできません。ディベートの先生ではなく、耳鼻科の先生の所に行ってください」と丁重に答えた。この話を誰かにすると、作り話だと言って信用してくれない。ぼく特有のジョークだと思われてしまうのだが、これは正真正銘のノンフィクションである。
彼女の話は教訓的である。難聴でなくても、物理的に音声が聴き取れないことがある。相手の発音の問題や騒音によって音声がかき消される場合などだ。先日、インド人が経営するレストランで連れの男性が「今日の日替わりカレー」を尋ねたら、「ホヘントーチケン」と返ってきた。彼は聴き取れていない。こんな時、何度も聞き返して物理的音声だけをキャッチしようとすればするほど、意味から遠ざかってしまう。
ぼくは即座に理解した。インド人の英語の発音に慣れているからではない。インドカレーのレストランなのである。カレーのメニューの一つなのである。カレー以外のイタリアンやフレンチや中華の品名を喋っているはずがないのである。ゆえに「ほうれん草とチキン」でしかありえないではないか。実際その通りであった。物理的な音声ということになれば、外国語にかぎらず、母語でも慣れない音声だと聴き取り障害が起こる。
幼児の母語習得過程や外国語の初心者に見られるように、語学力不十分な段階では、何を差し置いても音声に注力する。しかし、この先に進むと、ありとあらゆる想像力をかき立てて、音以外のコンテクストを解読せねばならない。文脈や状況に照らして音声をうまく認識できれば聴き取れる。だから、手も足も出ないジャンルの話には勘すら働かない。関心のない話に対しても文脈と連動するように聴覚は機能しない。ことばを聴き取るとは話を追うことだ。話し手側の文脈を聞き手側で再現することなのである。
聞き上手の話
話すことに関しては達者だと自負する二人。いつもわれもわれもと喋るので、口論が絶えない。二人は猛省して、『聞き上手』に関する本を読んだ。皮肉なことに同じ書物だった。
後日、精読した二人が再会した。お互い睨みあって一言も発しない。延々と時間が過ぎ、日が暮れた。それでも二人は口を開けようとしなかった。二人が読んだ本にはこう書いてあった。
「相手を尊重して、先に喋ってもらうこと。それが聞き上手の第一歩だ」
聞き上手というのは、質問上手であり、傾聴力にすぐれているということ。寡黙だけれど聞き上手という人にはあまり出会ったことがない。
「議論は知識のやりとり、口論は無知のやりとり」。これは、あるアメリカ人コメディアンのことばだ。以前の二人は無知のくせに喋るから口論になっていたのだろう。無知のまま聞き上手に変身することなどできない。知識をバックボーンにして少々のユーモアで味付けすれば、口論は議論へと止揚する。
人間誰しもわがままに自分に酔う。この習性をよく理解すれば、マーケティングセオリーにも応用がきく。
顧客はエゴイストである。
顧客はナルシストである。