アルゴリズム話法の限界

フローチャート.pngコンピュータの世界では普段着の術語になった〈アルゴリズム〉。一般的にプログラムと呼ばれているのは、このアルゴリズムをコンピュータに指示するものにほかならない。では、アルゴリズムとは何で、どんな役割を果たしているのか。

それは「問題を解決するための手順を定めたもの」である。問題には解答があり、その解答をいつでも手に入れるためにはアルゴリズムが欠かせない。手順を効率的かつ明確にするためにアルゴリズムはフローチャートで表現されることが多い。ある作業と次の工程の作業は矢印でつながれる。この手順さえ追っていけば、解答に辿り着けるというわけだ。都合のよさそうな話だが、「閉じられた世界」では大いに有効なのである。
 
自動販売機のしくみもアルゴリズムで説明がつく。硬貨投入口に値段ちょうどの120円を入れ好きな飲み物のボタンを押せば、お釣りが出ないで、缶コーヒーや缶ジュースだけが出てくる。入口と出口だけを見ればとても簡単だが、実はいくつかの変化を前提に複数の作業工程が機械内部で指示されている。たとえば、百円硬貨を二枚入れれば「80円のお釣り」が指示される。このような手順がプログラムされているので、自動販売機はよほどのことがないかぎり、利用者の願望通りの解答を与えてくれるのである。
 

 敢えて極論するが、いろいろなケースの手順がプログラムされていても、決まりきったことの繰り返しだから、プログラム外の変化には対応してくれない。100円しか入れていないのに、1,000円と缶コーヒーは出てこないのである。アルゴリズムとはそんな概念なのだが、これを万能だと勘違いしてコミュニケーションに敷衍して教えようとする暴挙に出くわす。新入社員研修などでは、会話のやりとりに自信のない若者にこのアルゴリズム話法を指南するのである。
 
先日たまたまテレビを見ていたら、ある研修講師が「会話はマイペースではなくユアペースで」と切り出した。これはまあいい。次いで、会話をスムーズにするためには、相手の言ったことばを「オウム返しにせよ」と言う。相手の「昨日久しぶりに焼肉に行ったんだよ」に対して、「へぇ、焼肉に行ったんだ」という具合。メッセージの行方もわからないままに、開口一番に乗っかれというわけである。「2センチもあるような厚切りのタンがおいしくてね」「わぁ、2センチの厚切りタン! すごいなあ」……これをいったいどこまで続けるのか。挨拶やご機嫌伺いのような型通りの会話ならそれでいいが、こんな調子では意見交換や情報交換へと発展する見込みはほとんどない。
 
仮にぼくが焼肉屋で目撃したおかしな一場面をジョークとして語り始めるとしよう。ジョークはある種の物語性の上に成り立つ。一文を発するたびにオウム返しされては話が分断されてしまい、オチまで息がもたない。合いの手を入れずに黙って聴くのがこのときの作法ではないか。反応には旬というものがある。早すぎても遅すぎても会話は流れない。会話を生きたものとして考えるならば、どんな場面でも手順化できるアルゴリズムなど存在するはずがないのである。
 
研修の指導者も受講者も読み切れない変化を嫌って、ハウツーを定式化する傾向が強くなってきた。こんな研修を受けても、実社会で臨機応変に振舞うことなど望めない。ぼくの本業の企画でも解答の定まらないテーマに焦れるあまり、安直なアルゴリズムでその場をしのごうとする人が増えている。型らしきものがないわけではないが、企画とは定まらない解答をひねり出すことだ。機転のきかないアルゴリズムでは話にならない。

いっそのこと「何でもあり」にしたら?

こんなジョークがある。

父親が血相を変えて校長室へやってきて、強く抗議した。
「うちの息子が筆記試験で答案をカンニングしたなんて、どうしてそんなことが言えるんです?」 さらに語気を強くして言った、「証拠が全然ないではありませんか!」
校長は冷静に言った。「そうでしょうか。息子さんはクラスで首席の女の子の隣に座っていました。そして、最初の4問にその子とまったく同じ答を書いたのですよ」
「それがどうだっていうんです!」と父親は切れかけた。「校長先生、うちの子も今回ばかりはよく勉強したんですよ!」
「そうかもしれません。でも……」と校長は大きく息を吸って後を続けた。「五つ目の問題に女の子は『分かりません』と書きました。そして息子さんは……『ぼくもです』と書いているのですよ」


入試のネット投稿問題にちなんで、毎日新聞の余録に科挙の時代のカンニングの実態が紹介されていた。いつの時代も、試験実施側が厳重なボディチェックと監視体制を強化すれば、その網の目をくぐろうとする受験生が新たな珍案・奇案をひねり出す。ITによる通信技術がここまで高度化すれば、新手が登場するのもうなずける。今回の事件には「さもありなん」と変な納得をしてしまう。

学内の中間・期末・実力試験の方法に懐疑的なぼくは、従来から、入試においても少なくとも辞書の持ち込みくらいは容認してもいいと思っている。実社会で仕事をこなすときには、時間の許すかぎり、何を調べようが誰に聞こうが自由である。あからさまに特許侵害やパクリをしないなら、仕事の出来さえよければ過程が問われることは少ない。要するに、結果さえ出せばいいのである。学校の試験もいっそのこと「何でもあり」にすればいい。

暴論とのそしりは覚悟している。でも、実力とはいったい何かを考えてみると、答えを導くために記憶した以外の情報源を用いないのは偏っているのではないか。自分の頭はもちろんだが、辞書や書物を参考にしたり、他人の意見を踏まえたり、ありとあらゆることを統合して解答することが、真の能力なのである。何を持ち込んでカンニングしてもかまわないぞ、それでもお前たちの実力をチェックしてやるぞと胸を張れるほどの良問を出題すればいいのだ。

「何でもあり」の代案もある。逆に「手ぶら」にしてしまう。紙も筆記用具も何もなし。くじでテーマを選び、それについて即興スピーチを作らせたり、二人の学生に即興ディベートをさせるのである。時間はかかるが、確実に実力がわかる。但し、ここでの実力もコミュニケーションや議論などの言語スキルに限定される。つまり、どんなテストも能力の部分テストにすぎないのだ。実力などわからない。もっと言えば、実力とは社会で残す結果に集約されるから、いまどれだけのことを知っているかよりも、これからどれだけのことをアウトプットできるかが問われる風土をこそ醸成すべきなのだと思う。

問題とモンダイモドキ

問題を解決すればすっきりする。苦労した末の解決なら爽快感もいっそう格別である。では、問題解決という満足を得るための第一歩――あるいは、欠かせない前提――が何だかわかるだろうか。

答えはとても簡単である。問題を解決するための第一歩、あるいは必要な前提は、問題が存在することだ。発生するのもよし、抱えるのもよし。いずれにしても、問題がなければ解きようがない。つまり、問題に直面したことがない人は問題を解いたことがないのである。また、問題解決能力のある人は、問題によく出くわすか問題が発生する環境にいるか、よく問題を投げかけられるか任されるかに違いない。断っておくが、詭弁を弄しているのではない。変なたとえになるが、自分の風邪を治すためには、風邪を引いていることが絶対条件と言っているのである。

問題とは困り事であり難しいものでなければならない。さもなければ、困りもせず難しくもなければ、解決などしなくて放置しておけばいいからだ。緊急であり、放っておくと事態が深刻化しそうで、しかも抱えていると非常に困る――問題はこのような要件を備えなければならない。問題解決も容易ではないが、問題を抱えるのもさほど簡単ではないことがわかるだろう。


本格的で真性の問題など、そこらに転がってなどいない。ぼくたちが「問題だ、問題だ」と称している現象のほとんどは、そのまま放置しておいてもまったく困ることもない「モンダイモドキ」にほかならない。モンダイモドキを問題と錯覚して右往左往している人を見て、内心、次のようにつぶやいている。

「きみ、そんなもの問題になりそこねた単なる現象なのだよ。問題に値しない、可も不可もない現象。きみは問題と言いながら、ちっとも困ってなどいないじゃないか。ただの現象を問題に格上げするきみの見誤りに気づいたぼくにとっては、きみ自身が問題ではあるけれどね……」

本物の人間などという言い回しがあるように、本物の問題というのがある。器が大きくて威風堂々とした問題、どっしりとして根深い問題、人を魅了し、かつ困惑させてやまない問題……「速やかに鮮やかに巧みにスパッと斬ってくれないと、大変なことになるぞ!」と挑発してくる問題。こんな「出来のいい問題」に遭遇できているだろうか。自称「問題で困っている人たち」をよく見ていると、みんなモンダイモドキに化かされてしまっている。付き合う甲斐もない似非問題に惑わされている。

さあ、しこたま抱えてきたモンダイモドキをさっさと追い払おう。一見絶望させられそうな難問を抱えたり呼び込んだりできることは一つの能力なのである。そして、難問こそが、「解決」というもう一つの能力を練磨してくれる。強い相手を見つけて練習する。これはスポーツ上達と同じ理屈だ。いや、練達や円熟への道はそれ以外にありそうにない。

二つの問題と知の分母

問題発生や問題解決などの四字熟語は、問題が歓迎されるものではないことを明示している。「問題が起こりました!」はいい知らせではなく、「問題が解決しました!」はいい報告である。「発生すると困り、消え失せるとうれしくなるもの、なあ~に?」というなぞなぞに「問題」と答えれば正解になる。もっと具体的に、シロアリの巣または借金またはシミ・ソバカスなどと答えてもよい。と言うよりも、{シロアリの巣、借金、シミ・ソバカス、クレーム、犯罪、凡ミス、etc.}を外延的要素として束ねる集合を〈問題〉と呼んでいるのである。

しかし、ここで少し冷静に考える必要がありそうだ。問題は頭を抱えるような困りごとばかりなのだろうか。いつも煩わしい事態を招くものばかりなのだろうか。実は、問題とぼくらが呼んでいるものは、正確には二つの種に大別できる。一つは〈プロブラム(problem)〉で、排除したり解決したりすべき原因を含むもの。そしてもう一つは〈クエスチョン(question)〉で、わからぬことを疑ったり新たな方法を問うたりすることである。便宜上、前者を〈P問題〉、後者を〈Q問題〉と呼ぶことにする。

「胃が痛い状態」はP問題である。P問題ではあるが、素人である本人には原因不明であることが多い。そこで専門家である内科医がその原因を診断し、原因を取り除くべく胃薬を処方したり養生の方法を指南する。P問題で困っているなら、問題の原因を排除する。それによって問題が解決する。原因を究明できれば問題は解決するが、原因が一つであることはほとんどなく、たいていの場合複数因が存在する。


Q問題がP問題とまったく異質であるわけではない。「胃が痛い」と感知した時点ですぐさま医院に駆けつければ、問題はP問題に留まる。「なぜ胃がしくしく痛むのだろう? 昨日食べた何かがよくなかったのか? それともここ最近の暴飲暴食のせいか? いやいや、仕事のストレスで胃が衰弱しているのか? これから胃腸を強くするにはどうすればいいのだろうか?」などと問うことによってはじめてQ問題へと発展し、少しでも推理したり振り返ったりする動機が生まれる。問いを発したからといって答えが見つかるわけではないが、問うことは答えに向けて考えるきっかけを誘発してくれる。

以上のように、Q問題はP問題の原因のありかと関わることがあるが、注意は、原因とは無関係な発見や創造に向けられる。そして、発見や創造への展望は、Q問題に入ることから開き始める。「言い表わすことのできない答えには問いを言い表わすこともできない。謎は存在しない。およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」(ヴィトゲンシュタイン)という至言を本ブログでも何度か紹介しているが、太字のように断言できるかどうかはさておき、問うことなくして答えが見つかることは到底ありえない。

混沌や無知蒙昧の中から問い(=Q問題)は生まれない。それどころか、P問題にすら気づかない。問題が問題であることに気づくためには、〈非問題〉に関する膨大な知のデータベースが前提になるのである。非問題の知識とは、平常の秩序的・共通感覚的なパターンのライブラリーだ。〈参照の枠組みフレーム・オブ・リファレンス〉としての知の分母と言い換えてもいい。問題意識はここから顕在化してくる。たとえ外部からやってくるトラブルであっても、それがトラブルであることを頭と照合しなければならないのだ。無知にあっては、PであろうとQであろうと、問題が生まれる余地などないのである。ゆえに問題を抱え問い続けているのは、知が健全に働いていることの証左と言える。悩むには及ばない。

ソリューション雑考

問題を解くという素朴な意味でソリューションということばを使っているのに、ぼくの意に反してずいぶん大仰に受け取る人たちがいる。彼ら流ではソリューションビジネスとかソリューションサービスと言うのだろうが、分野によってはソリューションはコンサルティングやシステム構築を含んでしまう。情報機器関連の業界では、もう二十年近く前からアフターサービスやメンテナンスもソリューションの一形態と見なしてきた。

ぼくの使うソリューションには「人力的」で「原始的」という含みがある。英語の辞書を引けばだいたい二番目に出てくる「溶解」または「溶かすこと」に近い。固形の問題を水溶液に入れて跡形もなく消してしまうというイメージ。日本語でも英語でも「ソリューションを見つける」という言い回しをよくするが、たしかに既製の水溶液を見つけてきて、そこに問題を放り込んできれいさっぱり解かせる場合もあるだろう。

しかし、いつもいつも運よくどこかに解法が存在しているとはかぎらない。問題に直面すれば自力で解決策を講じたりソリューションを捻り出したりせねばならない場面が多いのである。つまり、固形物を自ら粉砕せねばならないのだ。粒が残ることもあるだろう。そのときは、手作りの溶液へ投じて攪拌せねばならない。現実に照らしてみると、人力的かつ原始的に試みられるソリューションのほうが頻度が高いと思われる。なお、難度の高い問題が必ずしも高度なシステムとソリューションを必要とするわけではない。ぼくたちが抱える問題の難易度と解法のレベルは、数学や物理学とは違う。仕事や生活上の難問は案外簡単な方法で解けてしまったりすることもある。


誰かの問題であれ組織や社会の問題であれ、人はまず足元の問題を解決しようとする意志と情熱によって様々な方法を実践できなければならない。自分の困りごとやニーズに気づきもせず改善努力をしない者が、他者の困りごとやニーズに気づいたり気遣ったりできるはずがないのである。まず己のソリューション。これが自力という人力である。そして、何が何でも問題を解いてやるぞという意志と情熱。この「何が何でも」が、ぼくの言う原始的方法に呼応する。己のソリューションができてはじめて、他者のソリューションのお手伝いができる。

問題や課題を探すのが上手な人は五万といるが、彼らのほとんどは解決を苦手としている。問題のない状態が一番いいわけで、のべつまくなしに問題が発生するのを歓迎しない。ソリューション大好き人間などめったにいないのである。「好きこそものの上手なれ」と教えても、好きになれないのだからどうしようもない。ならば、「下手こそものの上手なれ」と言い換えてみようではないか。下手だから上手になろうとする習性があることを思い出そう。

たとえば「リヨンド・ガラソとは何か?」という問いは、調べて説明せよという問題なのか、それとも想像せよという問題なのか。この問いは、「売上アップ」や「薄型携帯のデザイン」などと同じ課題なのか。問題の記述文はソリューションの着地点を決定づける。忘れてならないのは、ソリューションとは問題のある現状を理想的な状況に変革する方法という点である。したがって、「リヨンド・ガラソとは何か?」はソリューションを求めているのではなく、意味や由来を図書館かインターネットで調べてこい、もしくは、ラテン系らしい語感を頼りに誰かに聞いてこいと指示しているのである。

残念ながら、リヨンド・ガラソをGoogleで見つけることはできない。なぜなら、ラテン系の表現でもなく地名でもなく、ぼくが窓を開けて空を見上げたときに「そらがどんより」とつぶやき、それを逆から発音して「りよんどがらそ」になっただけの話だからである。しかし、この記事の投稿したので、リヨンド・ガラソを検索すれば、この記事に辿り着くかもしれない。

世の中には、この例のように、ソリューションの対象にならない問題や課題もあるから気をつけよう。

知はどのように鍛えられるか(2/2)

言うまでもなく、知とは「既知」である。既知によって「未知」に対処する。たとえば、ぼくたちの知は問題と認知できる問題のみを想定している。そして、問題を解決するべくスタンバイし、これまでに学んだ法則あるいは法則もどきにヒントを求めようとする。このようにして、程度の差こそあれ、ある種の「なじみある問題」は解決を見る。しかし、解決されるのはルーチン系の問題がほとんどで、真に重要な問題は未解決のまま残されることが多い。ぼくたちが遭遇する重要で目新しい問題の大半は、つねに想定外のものであり、法則が当てはまらない特性を備えている。

バリアもハードルもハプニングのいずれもなければ、大概の問題は何事もないかのように解ける。いや、勝手に解けることすらあるほど、苦労なく対処できる。経験の中に類似例があれば、ぼくたちの解決能力は大いに高まる。「この道はいつか来た道」や「この道は前とよく似た道」なら、誰だって既存の法則や解法を水先案内人よろしく活用して、目をつぶって歩いて行くことができる。だが、話はそんなに簡単ではない。現実世界はバリアだらけ、ハードルだらけ、ハプニングだらけなのである。

高齢者住宅や民家型デイケアセンターの設計を手掛ける一級建築士の友人がいる。「あまり大きな声では言えないが……」と断ったうえで彼はこう言った。

「正直な話、バリアフリーの行き届いた住宅というのは万々歳というわけにはいかないのだよ。床も壁も敷居にも凹凸がないから、お年寄りは危険の少ない環境で暮らしている。安心感を持つことはとてもいいことだけれど、長い目で見ると甘やかされた状態に安住することになる。ところが、一歩外に出れば小さな凹凸がそこらじゅうにある。バリアフリーに慣れきった感覚はほんのわずかな起伏にも対応できず、ちょっとつまずいただけで転んでしまうのさ。」


この話を聞いてぼくは思った、「これはまるで知のありようと同じではないか」と。問題解決の知に限定すれば、ぼくたちは認識できる問題だけを対象とし、そのうちでも解けそうなものだけに取り組む。時間に制約があればなおさらそうなってしまう。解けそうにないと判断すれば、問題集の巻末模範解答を覗き見るように、その道の誰かに答えを求めようとする。あるいは類似の先行事例にならおうとする。この状況での知は、バリアフリー環境で甘やかされた「要介護な知」にほかならない。そもそも調べたらわかることをソリューションなどとは呼ばないのである。

〈わからない→考える→まだわからない→さらに考える→それでもわからない→外部にヒントを探す→見つからない→誰かに相談する〉。これだけ手間暇かければ、知はそれなりに鍛えられもしよう。答えが見つかることが重要なのではなく、答えを見つけるべく自力思考することが知的鍛錬につながるのだ。昨今の問題解決は〈わからない→誰かに相談する〉あるいは〈わからない→調べる〉など、工数削減がはなはだしい。思考プロセスの極端な短縮、いや不在そのものと言ってもよい。甘ったれた練習をいくら積んでも、バリアだらけハードルだらけハプニングだらけの現実世界では右往左往するばかりである。

以上のことから、本番よりも甘いリハーサルが何の役にも立たないことがはっきりする。こと問題解決の知に関するかぎり、普段から難問に対して自力思考によって対峙しておかねばならないのだ。その鍛え方を通じてのみ、本番で遭遇するであろう「未知の問題」への突破口が開ける可能性がある。ぼくは、この知をつかさどる根底に言語を置く。言語を鍛え、対話と問答を繰り返して形成された知こそが有用になりうる。事変に際して起動しない知、アクセスできない知は、知ではないのである。 

企画に言霊が宿る時

別に内緒にしていたわけではないが、何を隠そう、昨今リピートの多い研修は「企画」である。主催する側によって名称は変わる。「企画力研修」というストレートなものから、「企画能力向上研修」「企画提案力研修」「企画書作成研修」「政策企画力研修」などバリエーションは豊富である。もともと「スーパー企画発想術」と名付けていた二日間プログラムで、学習の基本軸は「発想>企画>企画書」。つまり、企画書に先立って企画があり、企画に先立って発想があるという考え方。その発想の拠り所は日々の変化への感受性である。

企画とは好ましい変化をつくることであり、その作戦をシナリオ化することと言えるだろう。何から何への変化かと言うと、Before(使用前)からAfter(使用後)への変化である。使用するのは企画という処方箋。つまり、さらに詳しく言えば、企画とは、現状の問題なり不満を解決・解消して、より理想的な状況を生み出す方策なのだ。こんなわかりきった(つもりの)企画という用語をわざわざ辞書で引くことはないだろうが、念のために手元の『新明解』を調べてみた。正直驚いた。「新しい事業・イベントなどを計画すること。また、その事業・イベント。プラン」とある。これはかなり偏見の入った定義である。まるで企画という仕事を広告代理店の代名詞のように扱っているではないか。

企画をしてみようという動機の背景には、まず何を企画するかというテーマへの着眼がある。そして、そのテーマ領域内の、ある具体的な事柄をよく観察していると、何だか問題がありそうだ、と気づく。いや、必ずしもゆゆしき問題でなくてもよい。ちょっとした気掛かりでもいいのだ。もしプラスの変化を起こすことができたら、きっと今よりもよくなるだろう―こうして方策を編み出そうとする。着眼力、観察力、発想力、分析力、情報力、立案力、解決力、構想力、構成力……数えあげたらキリがないほど、「〇〇力」の長いリストが連なる。


こんな多彩な能力の持ち主はスーパーマン? そうかもしれない。一言で片付けられるほど企画力は簡単ではない。だが、つかみどころのなさそうな企画力ではあるが、つまるところ、その最終価値を決めるのは「言語力」を除いて他にはない。コンセプトだの因果関係だのアイデアだのと言ってみても、下手な表現や説明に時間がかかっては企画の中身がさっぱり伝わらないのである。もっと言えば、新しくて効果的な提案がそこにあるのなら、使い古した陳腐なことば遣いに満足してはいけない。「固有であり旬であること」を表現したいのなら、「新しいワインは新しい皮袋に」入れなければならないのだ。

言語力が企画の価値を決定づける。もっと極端な例を挙げれば、タイトルが企画の表現形式をも規定してしまう。話は先週の研修。あるグループが順調に企画を進めていき、企画の終盤に『涼しい夏の過ごし方』というタイトルに辿り着いた。現状分析も悪くなく、「暑い夏→涼しい夏」という変化を可能にする詳細なプログラムをきちんと提示していた。しかし、総じて平凡な印象を受けた。「新しいワインを古い皮袋に」入れてしまったのである。

仮に『灼熱の夏と闘う!』としていればどうだったか。同じ企画内容が、タイトルの強さに見合った表現形式になったのではないか。ハウツーの説明に終わった『涼しい夏の過ごし方』に比べて、『灼熱の……』には企画者の意志が込められ、「夏との対決」の様子を実況生中継するような迫力を醸し出せたのではないだろうか。いや、もちろん企画者にはそれぞれの性格があるから、必ずしもそうなるわけではない。だが、その性格要因を差し引いても、命名が企画内容の表現形式にもたらす影響は想像以上に大きい。

ちなみに、「コンテンツ→タイトル」という帰納型よりも「タイトル→コンテンツ」という演繹型のほうが、メリハリのきいたダイナミックな企画になる可能性が大きい。これは、数百ものグループの企画実習の指導・評価経験から導かれた揺るぎない法則である。できたモノや企画に名前を付けるのではない。名前という一種のゴールや概念に向けてモノや企画をデザインする――このほうが言霊が企画に宿りやすいのだ。