いっそのこと「何でもあり」にしたら?

こんなジョークがある。

父親が血相を変えて校長室へやってきて、強く抗議した。
「うちの息子が筆記試験で答案をカンニングしたなんて、どうしてそんなことが言えるんです?」 さらに語気を強くして言った、「証拠が全然ないではありませんか!」
校長は冷静に言った。「そうでしょうか。息子さんはクラスで首席の女の子の隣に座っていました。そして、最初の4問にその子とまったく同じ答を書いたのですよ」
「それがどうだっていうんです!」と父親は切れかけた。「校長先生、うちの子も今回ばかりはよく勉強したんですよ!」
「そうかもしれません。でも……」と校長は大きく息を吸って後を続けた。「五つ目の問題に女の子は『分かりません』と書きました。そして息子さんは……『ぼくもです』と書いているのですよ」


入試のネット投稿問題にちなんで、毎日新聞の余録に科挙の時代のカンニングの実態が紹介されていた。いつの時代も、試験実施側が厳重なボディチェックと監視体制を強化すれば、その網の目をくぐろうとする受験生が新たな珍案・奇案をひねり出す。ITによる通信技術がここまで高度化すれば、新手が登場するのもうなずける。今回の事件には「さもありなん」と変な納得をしてしまう。

学内の中間・期末・実力試験の方法に懐疑的なぼくは、従来から、入試においても少なくとも辞書の持ち込みくらいは容認してもいいと思っている。実社会で仕事をこなすときには、時間の許すかぎり、何を調べようが誰に聞こうが自由である。あからさまに特許侵害やパクリをしないなら、仕事の出来さえよければ過程が問われることは少ない。要するに、結果さえ出せばいいのである。学校の試験もいっそのこと「何でもあり」にすればいい。

暴論とのそしりは覚悟している。でも、実力とはいったい何かを考えてみると、答えを導くために記憶した以外の情報源を用いないのは偏っているのではないか。自分の頭はもちろんだが、辞書や書物を参考にしたり、他人の意見を踏まえたり、ありとあらゆることを統合して解答することが、真の能力なのである。何を持ち込んでカンニングしてもかまわないぞ、それでもお前たちの実力をチェックしてやるぞと胸を張れるほどの良問を出題すればいいのだ。

「何でもあり」の代案もある。逆に「手ぶら」にしてしまう。紙も筆記用具も何もなし。くじでテーマを選び、それについて即興スピーチを作らせたり、二人の学生に即興ディベートをさせるのである。時間はかかるが、確実に実力がわかる。但し、ここでの実力もコミュニケーションや議論などの言語スキルに限定される。つまり、どんなテストも能力の部分テストにすぎないのだ。実力などわからない。もっと言えば、実力とは社会で残す結果に集約されるから、いまどれだけのことを知っているかよりも、これからどれだけのことをアウトプットできるかが問われる風土をこそ醸成すべきなのだと思う。